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モキュメンタリーの醍醐味は、フィクションをドキュメンタリーのように仕立てることで、ドキュメンタリーでは撮影不可能な内容に生々しさを与え、観客にリアルな“感覚”や“感情”を味わわせることにある。だからホラーやオカルトと相性がいいわけで。しかし、本作にはモキュメンタリーにする必然性が希薄かつ、皮肉にも実名起用された有名俳優たちの“芝居”がフィクション感を色濃くしている。そもそも論として、エキストラを主人公にしたコメディ・ドラマでよかったのでは。
主人公のぼんやりとした輪郭が、一年を通して次第に明瞭になっていく変化を、南沙良が体現する。嫌いだと思いこんでいた赤いトマトをひと齧りして、そのおいしさにハッとする瞬間。茜色に染まる砺波平野を、展望台から一緒に見下ろした、寮のOBへの淡い恋心を隠しきれない表情。彼女の体温の僅かな上がり下がりを、自然の色彩とともに切り取る映像により、トマトの味や恋の記憶が蘇る。きちんと生活を送ることで生を実感する主人公を通して、観客の五感が研ぎ澄まされる。
三十年にわたるドラマを三月に限定して描写する試みは、季節と撮影日数が限定された屋外ロケを有効に活用するという意味で、実利のある面白い発明だ。しかし、年を行き来しながら、三月一日、二日……と、すべての日付がカレンダーなりでご丁寧に画面に映し出されるたびに、「大事なのはそこじゃない……」と興醒めし、盛り上がるドラマについていけず。ラストのまさかの歌唱シーンも含め、映画というよりも、“三月のプロモーションビデオ”という形容がしっくりくる。
十五歳の光貴が、自身の出生の秘密を知るシーン。交通事故で意識が戻らない母に(育ての)父が、自分が光貴の実父ではないと語りかけている。相部屋の病室で、立ち聞きできる声量で言う? 光貴が同級生と殴り合ったあとに、仰向けに倒れて笑い合うショット。いまどきそんな仲直りある? ラストで“カゾク”4人が踊るシーン。劇中で重要な役目を果たした思い出の曲を使わないのはなぜ? 真面目に丁寧に作っていることは伝わるが、他にも疑問は多々。主演俳優の芝居は文句なし。
フェイク・ドキュメンタリー、制作者の言う「モキュメンタリ―」の快作である。ドキュメンタリーのように始まるが、これがやらせであるのが間もなくわかってくる。その面白さがまたいい。ある意味おふざけな作品に市長までも出演して全面的に協力しているつくばみらい市が素敵だ。行ってみたくなる。ロケ場所に店を貸しながら、出来上がった映画がイメージを損なうとして上映を差し止めたモスバーガーと比較したくなる。肝心なのはイメージではなく、味では? この映画に乾杯!
不登校になった少女が、「もみの家」という施設に預けられ、成長していく素朴な話。映画は嫌な奴の存在でわりと盛り上がるものだが、これには一人として嫌な奴は出てこない。が、静かに盛り上がっていく。心を閉ざしていた少女が米作りに加わり、家事をし、仲間たちとも心を通わせ、収穫祭で獅子舞を演じる。無表情な彼女が、徐々に表情を獲得していく。その姿を丹念に追っているだけなのに、なぜこうも心が震えるんだろうか。混じり気なくピュアであろう心で作られた一つの結晶である。
脚本家の遊川和彦氏ご本人にそんなことを言うと嫌がるかも知れないが、大御所であり、そのドラマもいつも感心させられる。脚本家が自ら監督するのは大いに結構。ビリー・ワイルダーは、「無能な映画監督と自己陶酔の俳優どもが自分が書いた脚本をめちゃくちゃにするのだと考えたあげく監督になった脚本家」と言われている。映画は中々面白く観た。が、作り過ぎている感じがずっと付きまとう。弥生とサンタの共通の友人の墓がなぜ韓国映画のように野中にぽつんとあるのだろうか。
デッサンというから、さらさらと軽快な映画だと思ったら、いきなり肉厚で濃い展開になっていく。恋人のバーで働く元ヤクザのやさぐれ男の許に、母親(ヤクザ男の元妻)が事故にあって意識不明だという少年が訪ねてくる。少年は男が実の父親だと思い込み、その暴力性に惹かれて、自らも暴力を重ねる。期待はさせたが、話はどんどん腰砕けになっていく。意識不明の母親が突然何もなかったみたいに意識を回復。ああ、めでたし。結局は無難にまとめたデッサンで終わっている。
エキストラを巡るドキュメンタリーかと思わせて実はコメディというフェイク・ドキュメンタリー。吉本製作だし、くすぐりネタの連鎖に有名人のゲスト出演と、なんだか『笑ってはいけない』シリーズを想起させる。ネタが横滑りで展開してゆくだけで深まらないし、人物のキャラも立たないので90分見ても何も残らない。かつての松本人志の映画には、特撮や時代劇への彼の違和感を無理やり拡張してジャンルの根拠を問うという批評性があったが、それは望むべくもない。
不登校の少女が、問題児が集まる家で農作業やらを経て復帰するまで。不登校に至る描写が薄く、学校内での自分の立ち位置が見つからない程度。なぜ不登校にという点を突き詰めていないから、学校に行けるようになった変化も説得的なものにならず、彼女の様々な経験も、予め決定されたハッピーエンドへの布石にしか見えない。それぞれの問題児の個性すら描き分けられていないし皆いい人で葛藤がないし、いろんな意味で温すぎるミクロコスモス。監督も脚本も岩井俊二門下だそうな。
高校時代から本当は好きあっている男女が30年にわたってすれ違い続ける様を3月時点だけを切り取って描くメロドラマ。ヒロインが政略結婚を拒否する時点で結ばれていてもおかしくないのではと思ってしまうが、この場面はフラッシュバックで後出しにするなど、30年すれ違い続けにするために相当無理している印象。3月だけで描くというのも奇をてらい過ぎで、それならそれで日付を明示すればいいものを、新聞や時計で暗示というのもかえってあざとい。スタイル偏重。
交通事故で意識不明になった母に声がけしてほしいと母の前夫を訪れる息子が、前夫を真の父ではと疑い始める。反映や鏡、不自然過ぎない程度に当てられた光によって、現実とすれ違った心理状態を表す演出に好感は持つが、冒頭で暗示される、作品を駆動する秘密が引っ張りすぎである割に大した秘密ではないため、映像的演出もスタイル偏重に見えてしまう。秘密(過去)で持続させるのでなく、曝け出された秘密でどう事態が動いてゆくか(現在)で劇を構成してほしかった。