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フラメンコ界にこのような凄まじい革命児が登場していたとは……!創造性や前衛性については歌手のビョークを、力強いパフォーマンスは、サッカー選手のディエゴ・マラドーナすらをも想起させる。作中で周囲の人間も本人も、それらしいことをいろいろと語ってはいるものの、すごさの本質的な部分についてはあまり伝わってこないので、とにかくダンスそのものが作品の核心となっている。同じくフラメンコのドキュメンタリー『ラ・チャナ』(16)を見ておくと、より感慨深い。
「マイ・マザー」(09)や「Mommy/マミー」(14)同様、母と息子それぞれの事情を、しかもダブル(二組の家庭)で描いていく内容に、もはやアラサーとなったグザヴィエ・ドラン監督の心の闇をあらためて強く感じさせる。スター俳優と少年との交流には、強い必然性もリアリティも感じず、感動的であるはずの結末も、どこか上滑りしているような印象を受ける。作中にも表れる“天才”、“特別”という自意識からはそろそろ離れるべきでは。少なくとも本作に以前ほどの鮮烈さはない。
「バーフバリ」(15)のあまりの面白さに心を射抜かれた者としては、主演プラバースの天下無双の活躍がまた見られただけで手を合わせたくなってしまう。だがそれだけでなく、タイトルクレジットの異様なかっこよさや、意表を突く構成、ハリウッドアクションのクライマックスのような場面ばかりが持続する流れは圧巻だし、それでもなお独創性がある。このレベルの娯楽作品が年に一、二本あれば、アクション映画最先端はインドということになりそう。そのくらいの大巨篇。
同じくノーム・チョムスキーが登場するカナダのドキュメンタリー「ザ・コーポレーション」(04)の内容に近く、企業の本質を見極める深度については後れをとっているものの、あくまで一消費者の立場に立って現地の惨状を伝える姿勢は美点。石油会社の鬼畜の所業を告発したのも素晴らしい。環境破壊問題についての意識が低く自国民の人権の保障すら危ういと感じられる日本においては、エコ商品に疑念を持つという前提からして、いまはレベルが高い話だと思えてしまうのがつらい。
フラメンコの知識はほぼゼロではあるが、ここに映し出されるロシオ・モリーナはダンサーというよりはアスリート、それも新体操の選手の鮮やかなパフォーマンスと映る。健康的な肉体が発する力強くシャープな床を踏み鳴らす音、一般的なフラメンコの踊りとは違いアクロバティックな動きやキレのある身振り、衣裳。彼女のダンスを軸に歌と伴奏が一つの公演の初日までを追い、彼らの創作への情熱には賞賛を惜しまない。けれど映像作品としては、各場面が断片的なのが惜しい気がする。
今回も母と子をテーマにしてはいるが、作品の設えはこれまでとはかなり異なる。3人のオスカー女優に加え、個性派の名優を主人公の母親と周辺に配役し、その彼らが各人いい味を出している分だけ、肝心の主人公の存在が薄くなり、結果、文通というストーリーの軸が瘦せ細り、逆効果に。人気俳優と、11歳のいじめられっ子の少年。そりゃあ、辛いですよ。2人の孤独は理解できるが、少年が手紙に何を書いたかが語られていないので、隔靴掻痒の感が募る。当を得た配役は見る価値あり。
見せ場があふれんばかりに盛られた映画だが、前半の人物関係が解りにくい。犯罪組織と市警と窃盗グループが入り乱れているからで、インド映画に特有のMAXなサービス精神はよしとして、少し整理すれストーリーにキレが出たのに、残念。後半になってストーリーが走り出すと、「007」ばりのサスペンスと超人的なアクション、「マッドマックス」に引けを取らない武器に闘い、加えて派手なカー・チェイス、CGによる映像が連続的に繰り出されるが、やはり2時間49分は長かった。
ゴミの減量、脱プラなど、個人的にも暮らしの中でエコの意識が高まってきた昨今ではある。けれどこの映画は、そんなレベルからは見えないところで巨大企業が行なっている欺瞞を暴き、衝撃の事実を明示する。薄々、想像はしていたがやはりそうだった……。作中、チョムスキーは言う。「大量消費主義を取り除かなくてはならない」と。理解はするも、我が暮らしに向き合うと、難題多し。記録されたシュールとも見える光景に驚愕しつつ、東京電力福島第一原発の汚染水処理問題が頭をよぎる。
ロシオ・モリーナという天才を追うことによって即興の舞踊でしか生まれ得ない芸術性について考えさせられる作りになっているのだが、そのパフォーマンスはもとより創作風景やプライベートに至るまで、彼女の姿をひたむきに捉え続けるカメラの構図や動きが、呼吸を合わせるかのごとく素晴らしくキマっているのを見るにつけ、ドキュメンタリーのカメラワークもまた、即興の積み重ねで成立しているものであるがゆえに、撮り手の魂を剝き出しの形で表出させる芸術であると改めて感じた。
グザヴィエ・ドランという監督は感性の作家であると同時に映画作りが滅法上手い職人的な腕も兼ね備えた稀有な才能の持ち主であるにもかかわらず、今までの作品は感性に比重が傾いてしまっているがゆえにある程度客を選ぶ、いうなればシネフィル向けの映画になってしまっていることに若干の勿体なさを感じていたのだが、本作のスタンド・バイ・ミーが高らかに鳴る邪気のない豪速球ど真中のシーンは、そんな思いを木端微塵に打ち砕いた瞬間で、こんなものを観せられたら泣くしかない。
ド派手なアクションを観せたいという潔さは好感度大だが、警察が変な機械鳥人間になって飛んでくる描写等、リアリティラインがまったく摑めないまま大味の物語が進んでゆき、なんの脈絡もなくポストアポカリプスな世界に突入する破茶滅茶ぶりに加え、本筋に関係ないスノビズムにまみれたパリピ風PVを結構な長尺でちょいちょい挟んでくる演出にインド映画に対する許容メーターの針が振り切れてしまった自分はあまりノレなかったのだが、20代の監督がこれを撮ったのは凄いと思う。
的確に問題提起をしている現代的かつ意識の高い映画だと思うし、言ってることに反論する気もないのだが、原っぱでレジャーシートいっぱいの自然食とワインを嗜みながら寝転がってインタビューを敢行するセレブリティな監督の姿や、劇映画ばりに安定したカット割りが施された雑味も淀みもなさすぎる会話シーン、予め用意された結論に向けて段取られているようにも見える構成等にドキュメンタリー映画として胡散臭いものを感じてしまった自分はきっと意識低い系の人間なのだと思う。