パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
観客を飽きさせないよう脚本を練りに練ることで知られる韓国映画は、その結果、やたらひねりの多い構造になっているものが結構あるけれど、これは比較的ストレート。なので一見「観やすい」映画に思われるけれど、ことはそれほど単純ではない。特徴的なのは、各人物の目的や心理を曖昧にしたまま映画が進んでいくことだ。人物の動機に基づいて物語を展開するハリウッド流作劇術や、手取り足取り説明してくれる多くの日本映画を(うっかり)観慣れてしまった身としては、かなり新鮮。
全体主義国家はしばしば逸脱者をドラッグで制御すると聞くけれど、誤解を恐れず言えば、撮影所システム時代のハリウッドも、俳優たちの心身を薬物で管理していたものだった。その意味でも、S・レムのディストピア小説と、映画界(とりわけスターの管理)の主題が交錯するのは興味深い。そして、これがどこまで監督の意図だったのかはわからないが、実写からアニメーションに移行したときわたしはまさに、「個人の主観に閉じこめられる」ことへの耐え難い恐怖に見舞われたのだった。
ノンストップアクション大作を謳う映画は数多いが、これは完全に格が違う。いかに編集が速くとも、ひとつひとつの画面がきっちりつくられているから、観ること自体の快楽がすさまじい。全体が一篇のロック・オペラとして構築されているかのようであり、緩急のつけ方にも、前半に出てきた複数のモチーフが後半さりげなく活きてくる構成にも唸る。マックスとフュリオサがいつのまにか共闘に至っている感じもいいし、何を隠そう、実は女たちの壮大な反乱の物語だったという点にも痺れる。
これほど緻密な会話シーン(時に15分、20分もの長さに及ぶ)を映画で目にすることは滅多にない。チェーホフを意識していることは監督自身の発言を聞くまでもなく明らかだが、ほかにも近代ロシア文学を下敷きにしているらしいこの世界では、登場人物たちは(漱石の小説のように)近代西欧的な自我を抱えて煩悶し、議論し合う。自尊心についての映画であり、雪景色以上に、暖炉の炎の揺らめきと薪のはぜる音の映画である。この監督の他の作品も紹介されることへの期待をこめての★の数。
臭いが立ち上ってきそうな、マッコリとトッポギの混じった血ヘドやゲロ、女に尺八させては恍惚顔を浮かべるオヤジ、この2010年代に平然とトレンチコートにタートルネックでキメることができるパク・ソンウン……。よくあるベタな話だといえばそれまでだが、そう簡単に片付けられない濃厚なアレコレが詰まっている。イイ面構えした男たちに囲まれた、イ・テイムも見事。タヌキ顔+イヤらしい体という、なんとも男好きのする彼女が発しまくる途方もないスベタ感にクラクラした。
なりたい容姿になれて、望む環境に身を置いていると錯覚できるドラッグと、同じ効用を誇るVFXをはじめとする飛躍しまくったデジタル技術とリンクさせる視点。そして、スラップスティックな原作とは打って変わった親子愛のドラマへと変化&着地させた、アリ・フォルマン監督の手腕に唸る。フライシャー兄弟のタッチを炸裂させまくったアニメ・ビジュアルも、彼らのドラッギーでシュールな持ち味をきちんと抽出して拡大しているのが素晴らしい。画を眺めているだけでも満足な作品。
30年ぶりのシリーズ始動だけでも涙なのに、40過ぎの汚ッサンに映画の根源的興奮なるものを改めて教えてくれる中身にまた涙。最凶のアクションとバイオレンスが炸裂するなかで、崇高な希望がギラギラと輝いている。冷静に本作を観ていられる者など、この世にいるのだろうか?観終わった後、右手親指の爪半分が割れ、唇の端が少し切れていた。どうしてそうなったのか検討もつかないし、その痛みすらも愛おしい。ジョージ・ミラーが生きとし生けるものに向け放つ至高のギフト。
主要キャラクターとなる男女3人が、とにもかくにも鼻持ちならないタイプ。そんな連中が揚げ足取りに精を出す〝ああ言えばこう言う〟会話を、196分にわたって延々と聞かされる。監督によると「人間の魂の暗部を探求したかった」そうで、たしかに、慢心、虚栄、嫉妬、嘲弄が全篇に横溢。しかし、そうした〝闇〟はジワジワと観ているこちらにも伝染。部屋に閉じ籠もって罵り合ってばかりいる3人を、煙を焚いて炙り出したくなった。わさびについて語る日本人宿泊客くらいが見もの。
犯罪組織「皇帝」のトップに上り詰めるためにくり返される殺戮、凶器は短刀が多い。「ノワール」「任俠」とはいささか違う気がする。人気のイ・ミンギが無表情な犯罪者を力演しているが、若さと甘い容貌は、暴力にしか生きられない男の悲しみを表現するには到らない。ミンギと兄貴分のパク・ソンウン、ともに女嫌いとおぼしく、欲望の対象でしかない醜悪な女しか出てこない。そのホモ・ソシアル的な世界は面白いが、人物が一様にステレオタイプで肩入れしたい主人公がいない。
映画の後半、突如画面はアニメーションに代り、二十年後の悪夢のようなハリウッド(とおぼしき映画界)の未来図となる。映画とドラッグで、全米を支配しようという資本の野望とそれに抵抗する反乱軍。美しい色調のアニメ映像と音楽は、ドラッグ幻想のようだ。「イヴの総て」「サンセット大通り」「スタァ誕生」など良き時代のハリウッドを題材とした一連の映画の最期を飾るあだ花のような作品だ。荒唐無稽と言い切れるだろうか。ロビン・ライト(役名も同じ)が実に魅力的。
主人公たちを乗せた巨大な改造トラックが二時間近く疾走し続ける。改めて映画の神髄は活動写真だという思いを新たにする。リュミエール兄弟の撮った機関車の突進に驚いた世界最初の映画観客のように、爆走する車に終始眼は釘付けにされた。最初の「マッドマックス」が登場してから三十年近い歳月が経ち、それなりの進歩成熟をとげてはいるものの、過激で純粋なアクション指向は確として変らない。その集大成だろう。ジョン・フォードの「駅馬車」へ捧げる究極のオマージュと見た。
カッパドキアで旅館「オセロ」を経営する高等遊民の主人公、妻は美しく若い。夫婦そして妹との間で激しい口論がくり返される。相手の全存在を否定するごとき言葉、言葉、言葉。ただただ圧倒される。テーマは倫理、道徳、良心。真摯ではあるが、生活者の実感からは遠い。亡びゆく有閑階級の閉塞感、鬱屈はまさにチェーホフの世界だ。彼らが外部の人間と接した時に、ドラマは思わぬ展開を見せる。特異な風土を背景に展開する深淵な人間ドラマは三時間十数分全く退屈させない。