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映画の出だしでヤクザの親分リリー・フランキーが、いくら銃で射たれても死なないのにおや? と思い、あとはなるほどと、人外魔境のような下町風景のなかにカタギよりヤクザばかりが世界(宇宙)じゅうから馳せ参じてくるドラマのなかに引きこまれ、乗せられてしまう。どの画面も熱気がこもり、このおもしろさはただごとではない。例によってガトリング機関砲もちゃんと出てくる。昔を殺した音楽と撮影の色調もすてきなこの監督の最高作。だれもスマホを使わないから気持ちがいいのだ。
これは日本版「X-メン」の映画だ。彼らの超能力ぶりはうまく描かれていて、それはいい。だが私は、彼らを生みだした政界の黒幕や官僚たちの描きかたに目を向けてしまう。日本の多くのテレビ番組その他と同様、彼らの描写はありきたりで、大きなお屋敷に住み一般市民を見くびっている。スーパーヒーローは、市民社会が機能する国でないと生彩を放てないから、日本にはなじまない。市民と交わることなく超人たちは廃墟で殺されていく。市民の権利を護る法律が改悪されるように。
岩波文庫版の『風と共に去りぬ』の訳者・荒このみさんは、今年三月、この映画の舞台となったアラバマの「セルマ」(映画の原題)で、多くの参加者と共に橋を渡ってきたが、この映画を見ていないのを残念がっていた。一九六五年のキング牧師の行進を軸に、彼のなしたことを再現する映画には、当時のニュース映像も使われている。そして、ジョンソン大統領とセルマ市長のやりとりなどを見ていると、対立を含むあらゆることに明白さが要求されるアメリカという国の仕組みがよくわかる。
一九六六年のインドネシアにおける共産主義者大弾圧の加害者群像をとらえた前作「アクト・オブ・キリング」よりも、被害者の弟が兄を殺した人たちを訪ねていくこの作品のほうが深味があり優れているのは、視点がはっきりしているからだろう。フランス文化研究家の鹿島茂氏は朝日新聞出版の『一冊の本』六月号で、この大虐殺をアモック(文化結合症候群のひとつ)として論じ、だれも責任をとらないのは日本の大東亜戦争にも通じるかもと述べられているが、必見のすごい映画である。
ヤクザ・ヴァンパイアがカタギの血を吸うと、カタギがヤクザ化して増殖していく珍展開。カエルの着ぐるみも出てきて、もう、くだらないなぁ。しかし、三池崇史が助監督時代に親しんだ日活撮影所で撮っているからか、原点回帰の清々しさがある。最近の三池作品を考えると、余分なものを削ぎ落とし、素朴で純粋な映画の力で勝負しているように思えるのだ。構図もカット割りもタイトでカッコいい。市原隼人の純粋さとタイトな肉体が、その方向性にジャストフィットしていてよかった。
実験により、特殊能力も持って生まれた子どもたち。未来のためにその力を使おうとする組と、未来を破壊しようとする組が遭遇し、バトルを繰り広げる。瀬々敬久の手掛けた大作でも、「感染列島」が王道感あるエンタメだったことを思えば、こちらは確信犯的にセオリーをハズしている印象。先取り感ある若手俳優のキャスティング、ダサおしゃれ感漂う不思議な味わい……。成功しているかわからないが、独特なセンスが貫かれている。もう少し小規模の作品なら、かっちりハマッたかも。
キング牧師を主人公にした長篇映画がこれまでなかったのだとすれば、それだけでもこの映画の誕生はすごいことかもしれない。非暴力を掲げるキング牧師の闘い方は本当に地味で、映画の進み方も終始淡々としている。状況を説明していく過程に演出としてのぎこちなさを感じるけれど、クライマックスの行進に向かってじわじわと盛り上がる感動は圧巻だ。製作総指揮も務めた黒人女性監督エヴァ・デュヴァネイの信念と姿勢は、キング牧師の改革の静かな迫力と重なるところがあるだろう。
インドネシアで起きた虐殺の加害者側の内面に添って悪を炙り出した前作に対し、その被害者家族の側に立って、兄を失った青年と共に、カメラは加害者たちに迫る。前作同様、ドキュメンタリーの感じがあまりしない、妙にスタイリッシュな画面が不気味さを増幅している。正体を偽って加害者に近づいていた青年が、本当の目的をさらす瞬間の戦慄。ただ、青年の熱意があったにせよ、これは危険すぎるのではないか? 私は第三者の人間が、映画でこういう介入をしていいのかわからない。
ヴァンパイアも極道も昭和もゆるキャラも完全に食傷気味。正直もういいよ! これだけすばらしい役者(「ザ・レイド」のシラット使いまでいる!)が揃っているのだから、直球の極道映画が見たかった。ビニルハウスでへんなものを育てている高島礼子よ、そんなことをしている場合じゃない! 昭和ふうの商店街のロケセット、とくにクライマックスの名画座(三本立て)前の通りなんかがすごくよかったから、なんだかもったいない。大戦争はもう妖怪だけでいいよ、ちょっと笑ったけど。
正直にいうと、何の感想もない。超能力少年たちが生まれた背景も生きてきた過程もぞんざいに処理され、もとより原作に魅力を感じない。少数者の孤独、他者への無関心という、まさに「ヘヴンズ ストーリー」の監督が正面から描くべき喫緊のテーマも、反=原発思想と過激主義の結託という前半部分の挿話も、決してまともに向き合われてはいない。ベテランも若手も、俳優の演技は型にはまっており、アクションに迫力も新味もない。若い俳優のファンに向けて作られたのだろうか。残念だ。
雄渾なエートスを感じさせる伝記映画。キング牧師の生涯を追うのではなく、セルマでの行進にフォーカスをさだめた作劇もみごとである。何より主演のデイヴィッド・オイェロウォのスピーチが本物と聴き違えるほどの迫力で、キングの演説にある生気と気品をたしかにいまに伝えてくれる。権利の関係で一文一文を類語に置き換えたと聞くが、それでもかみしめたい名文だ。少女たちの死をスペクタクルのように見せる冒頭すぐあとの場面にはつよい抵抗をおぼえたが、作品の瑕疵とはならない。
前作で描かれた虐殺の被害者遺族が、危険をかえりみず顔を出して出演していることに並々ならぬ意志のつよさを感じる(撮影は彼が希望した)。けれどもこの「見かけの静寂」は、多分に作者によって演出されたものに違いなく、主人公が眼鏡技師であるという事実もできすぎている(眼鏡は現実を凝視させることの隠喩である)、前作を吐き気とともに見た者ならばそう思わざるをえない。インドネシアの暗部に光を照らし、政治を動かした功績は大きいが、この監督の方法をわたしはみとめない。