パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
実在の殺人鬼の日常を描きながら、人間の醜さや哀しさを、目を逸らしたくなるところまで克明に描いていく作品なので、万人に薦めづらいところがあるが、それだけに人間の根源的な部分に触れるところがある。そして注意深く見ることで、バーに集まる様々な登場人物と同じ目線に立った、じつは優しいまなざしが存在することにも気づかされる。事件を何らの美化もせずに、しかし美しい寓話のように仕上げた手腕も素晴らしく、闇の名作として後世に残る映画になるだろう。
奇しくも「ソン・ランの響き」に近い設定の作品だが、こちらは芸の道に中指を突き立てるパンクさが気持ちいい。と同時に、むしろその姿勢が50年前に衰退したという本来の伝統と共鳴する瞬間が感動的! マッチョ志向や不寛容な精神を、伝統の美名のもとに珍重し、少数者を踏み潰そうとする現代の風潮への批判も的を射ている。コンテンポラリーダンサーのレヴァン・ゲルバヒアニの華奢な身体と激しいダンスとの危うい均衡が、映画全体に美と説得力を与えている。
あえて“王道”、“インド娯楽映画”らしい映画を提供するという試みが清々しく、ダイナミックな映像や演出が楽しい作品だし、そういった時代錯誤的な要素を自虐的に指摘してみせる描写もあるが、それでもさすがにストーリー展開が型にはまり過ぎなのでは……。古典的な内容が、いまの時代や社会の問題につながりを見せる瞬間がこないままに終わってしまうので、どうしても空疎な映画に感じられてしまう。王女役のソーナム・カプールの神々しいまでの美貌には圧倒された。
芸道ものやヤクザの哀愁といった古めかしい内容にブロマンス要素を掛け合わせたことで、現代的な文脈で見られる映画になっている。写真家として活躍する監督ということで、画面の色や、とりわけ静止画としての映像の美しさが際立っているところが肝か。その反面、脚本にはひねりがなく予定調和的で起伏に乏しい。ファミコンソフト「魂斗羅」二人同時プレイで、主人公たちの友情が深まる描写は、同じゲームを当時友達とプレイしている者としては嬉しくなってしまった。
生理的な不快感、それも特に前半は視覚と嗅覚の忍耐を強いられる。1970年代に実在した殺人鬼が主人公なのだが、フリッツ・ホンカは言うに及ばず、犠牲になった売春婦、舞台になっている風俗街のバーの常連客は、おそらく第二次世界大戦後の復興の波から置き去りにされ、国からも一顧だにされない人たちであろう。殺人者も犠牲者も、理知を感じさせず、動物的な無様さしかない。せめてカタルシスでもあれば……。特殊メイクの効果も含め、ホンカ役のJ・ダスラーの熱演に★オマケ。
ダンスが題材のこのラブストーリーが伝える事柄の多さに感心すると共に、それらの表現の巧みさに感嘆。マチズモとセクシュアリティの他に家族、人々の生活、文化等々、画面に映るジョージアは、興味が段々に積み重なる手堅い構成になっているのが注目すべきポイント。ローカルな場所にいるマイノリティの主人公をとおして問いかけてくるグローバルな世界のマジョリティな人々とは。その答えを、ラストの圧巻のダンスシーンで出すのはお決まりの着地だが、ともかく見どころが多い。
アクションありコメディありラブロマンスあり、そのうえ浮世から離れたおとぎ話の世界で歌って踊っての、てんこ盛り。これを伝統的なインド映画だと言ってしまえばそれまでだが、画面が極限まで賑々しく、かつ色彩にあふれているわりには、響くものが少ない。街の役者が意識不明の王の影武者にされるという、いわゆる替え玉ものはコメディの定番であり、偽の王に仕立て上げる王宮の家来、王位を狙う敵役、婚約中の王女と、定番に必要な駒は揃っているのに。過ぎたるは何とやらの感。
ベトナムの伝統的な歌劇を組み込んだ友情のドラマは、主人公の陰影に富むキャラクターと、ストーリーの運びがポイント。借金の取り立てが生業のユンが見せる、非情で暴力的な表向きの面と穏やかな内面がよぎる、一瞬の演技が素晴らしい。もう一人の主人公リン・フンが開演前に化粧をする時の陶然とした表情は、どこかウォン・カーウァイ監督作におけるトニー・レオンを思わせる。これを男性の友情とするには、二人の感情が発する微熱に、心が騒ぐ。結末に至る手際の良い展開が秀逸。
映画の主人公として登場する猟奇殺人鬼というのは、驚異的な知能の持ち主だったり、独自の哲学を貫いていたりと、何かしらダークヒーローとしての魅力が付加されているのが常だと思うのだが、そういうものが毛の先ほども与えられていないコイツは、ただひたすら自分勝手に人を殺しては「またやってもうたー!」と泣くばかりの正真正銘のゴミクズ人間で、そんな男を徹底的に突き放して描いているこの映画の視座もまたサイコパスのそれに思えてくるに至り、恐怖の果ての笑いが漏れた。
人物の心情に寄り添いながらシーケンスごとに手法をずらしてくる不均質な演出とカメラワークには惚れ惚れさせられたし、「セッション」ジョージア舞踊版的なスパルタ教師との対決、同性愛差別、生々しい性愛描写、切ないラブストーリー、それら複数の要素を分離させることなく盛り込み、最後に肉体の躍動をもってまとめんとする試みの脚本もシンプルながらクレバーだと思うが、巧さゆえに抑えが利きすぎて物足りなく感じる部分もあり、この辺の匙加減は映画の難しいところだと思う。
深刻な格差社会の上に成り立っている王族たちの豪奢を極めた日常や家族愛、恋愛模様を何のエクスキューズもなしに能天気に見せつけてくることに微妙な気持ちになる……なんて野暮は言いっこなしで、歌って踊りまくるインド映画らしさに溢れた娯楽作品として胃もたれしながらもお腹いっぱい堪能したのだけれど、個人的にインド映画に最も感じている不満「尺が長い!」はなんとかしてほしいところで、164分ともなれば気楽に観られる長さじゃないし、普通におしっこ行きたくなった。
画の質感、フレーミング、カッティングのどれもが映画的としか言いようがないもので、開始早々から傑作の予感に胸膨らませ、事実、中盤までの流れは素晴らしく、今の時代にこういう古典的でありながらも力強い映画作りを実践しているこの監督に全幅の信頼を寄せながら観ていたのだが、二人の男が心を通わせ始めるあたりから、どういうわけか映画が急激に失速した感触になり、終盤に至っては劇中歌劇に尺を割きすぎて、本線の方がいささか陳腐な着地をしてしまっているように感じた。