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ホラーは苦手と軟弱にも可能な限り回避してきたジャンル。それで★をつけようとはいかにも心苦しい限りなのだが、さらに告白すればJホラーの雄、世界の清水映画も避け続け今に至っている。というわけで監督の軌跡を鑑みてこの新作を評することもかなわず、以下、背を丸め小声でいわせていただけば、乏しい記憶の中にある湖、トンネル、赤ん坊、母、呪われた血族と土地、犬歯(牙)等々、こんな私にもなじみあるジャンルのモチーフが山積みで妙にホッとした。ホラーなのに?!
見終えてまず原作を読むこととメモした。怠け者に律儀な決意を促した映画には、もうひとつの「ロング・グッドバイ」ともなり得るのに安易にそこに落ち着くのを拒むといった健やかな頑なさが息づき、そのもやもや感が時と共に不思議な磁力となってくる。原作を読み「ほのめかし」を核としたいかにも映画化は難しそうな一作に挑んだ監督と脚本家の闘志に打たれた。書かれなかったことを見せるのか。言われなかったことを言葉にするのか。小説と映画の間でなされた選択を反芻、吟味したい。
20年1月24日の試写の時点で、未完ゆえ公開時には別のものとなっている可能性もといった前口上があり、それでは見ても評しても空しくはないかしらとちょっとムッとし、しかし鑑賞後にはぜひ別のものになってと切望した。同じく斎藤工が企画・製作した「MANRIKI」の時にも感じたことだが、思いつきだけ、仲間内の盛り上がりだけで形にした何かを映画とは断固、認めたくない。自己規制に縛られた世界の今を撃つ志を伝える術を練って欲しい。ノーといえる仲間をみつけて欲しい。
昔、日本映画は暗くて重くてなどと脳天気に広言していた大学生の頃、新藤兼人の「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」と出会い蒙を啓かれた。溝口は無論、彼を語った面々に、彼を撮ろうとした新藤に、そうして日本映画に少しでも近づきたいと興味をかき立てられた。同様のそそのかしの力をこの誠意に満ちた一作も感じさせる。しかも監督東自身の言葉でその“現在地”を確かめさせてもくれる。ギターの少女を章ごとに挿む趣向への疑問は最後の「知らん顔」の清新さにやや薄らいだ。
都市伝説の映画化という些か安直な企画を、以前から構想していたらしい血縁をめぐるドラマに仕立てた清水監督。なのに、この血の「薄さ」はどうしたことだろう。最初の犠牲者となる少女とその恋人(さらに二人の子ども)、臨床心理士の主人公と家族、あるいは患者の男の子……彼らのつながりがどの程度の切実さをともなうものなのかが曖昧なため、血の物語としての恐ろしさも悲劇性もいまひとつ迫ってこない。クライマックスなど和製「狼の血族」という感じでわるくないのだが。
深い陰翳をたたえた芦澤明子の撮影にまずつかまれる。綾野剛、松田龍平、筒井真理子、少ない出番の國村隼も安田顕もただならぬ存在感を発揮。これぞ映画、と讃えて終わらせたいところだが、観ているうちにその隙のなさ、演出の粘りが足枷となってくる。文句をつけられる筋合いなどない丁寧な仕事を成し遂げていることは重々承知しつつ、僅かでも、快い飛躍や「ほつれ」のようなものが見えてほしかった。それこそがこの物語の煮え切らなさを描くうえで重要だったとも思えるのだ。
岩切一空監督のパート。「聖なるもの」でも瞠目させられたワンショットの吸引力、今回も健在。このパートが最後にきていたら、全体の印象はもっとよくなったような気がする。それくらい残りの時間は苦痛だった。とくに齊藤工監督のラストパートは、このテーマに対して、考えうるかぎりもっとも凡庸なアプローチをしているとしか思えない。これなら80年代のコントビデオにはるかに斬新なものがいくつもあったし、それこそ影響を与えたらしいスネークマンショーの洗練とは程遠い。
学生時代に「日本妖怪伝 サトリ」を観て以来、東陽一という監督が気になっていた。日本映画史において、きわめて重要な作品を撮ってきたひとである。にもかかわらず、つねに真ん中にはいない。キャリア的には巨匠といわれてよいが、どうもその呼称が似合わない。そんな東陽一のドキュメンタリーができたと聞いて意外の感があったが、観て、腑に落ちた。真ん中にいない、ということが、つまり東陽一の「現在地」なのだ。いや、ずれているのは、この日本社会のほうかもしれない。
世界に売れる清水ホラー。語り方に工夫はあるものの、たとえば「伝説」を生む集合的無意識がどうだとかは考えず、おぞましさへの踏み込みに遠慮のないところがいいのか。ダム湖の底に沈められた村。その人々の前近代的生態と電力会社による陰謀の悪辣さの記録映像とされるものが出てくる。ゾッとした。往年の新東宝カルトの系列。そう考えると「妖しさ」不足が惜しい三吉彩花のヒロインだが、クライマックスで彼女と弟が過去の世界から祖母である乳児を連れて戻るのはよかった。
沼田真祐の小説はいわば純文学の典型。しっかりした文体で淡々と進む。大友監督がそれに挑む。その果敢さをよしとしたい。どうなったか。原作にかなり忠実な内容を濃い目に見せていく。自然の風景から密度ある画をつくるカメラは芦澤明子。緑、羨ましくなるほど。綾野剛の「弱い心」にまだ鮮度があり、松田龍平も役になっている。惜しいのはテンポのなさ。企画的に無理なことをあえて言うと、三・一一もゲイも抜きでやったらと思った。むしろ原作の奥にあるものに踏み込めたのでは。
七〇分。キズ入りフィルムを装うなどのイメージ部分を除くと正味どのくらいか。この短さで、構成が雑だ。斎藤工は総監督、一部を撮っただけで、ゲスト監督がオムニバス的に仕事している。監督ってどういうものだと思っているのか。自主規制のアホらしさがテーマ。それを笑う前にすべきことが多々ありそうだ。メディアと現在にぶつかって風刺や抗議を成立させるための、この世界への愛がなさすぎる。相対的に、インタビューされるタレントを演じる秋山ゆずきに「経験」を感じた。
東陽一とは何か。気さくに語る姿を見て、作家論的なことだけでなく、自分がなにかを取り逃がしてきた気がした。映画で「言いたいことなどない」。変化する社会のなかの、一作ごとの出会いと工夫があるだけなのだ。作品の断片の挿入が決まり、異なる質の聡明さをもつ三人の女優との対話が楽しい。小玉監督、愛があるのだ。安藤紘平による解説以降のまとめ方がややくどいが、半世紀以上の奮闘の持続からすれば当然とはいえ、これだけのものを作ってもらえる監督は滅多にいないだろう。