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ヒトラーユーゲントに熱狂する軍国少年の話なのに、ストーリー運びが妙に能天気で、意図が丸見えの漫画っぽいタッチが少々ねむたい。ところが戦争の影が近づくと、しだいに水深が増して足が着かなくなる感覚があり、気がつけば目を見開き手を握りしめていた。少年ジョジョとユダヤ人の娘エルサの二つの顔が呼吸するようにもつれ合いながら、ドアを明けて心震えるラストへ。結局私の聞き間違いだったが、この後に聞こえる歌声は一瞬D・ボウイだった。子供たち、皆で踊れ!
CGでもアニメでもなく、生身の役者に体の線が美しい毛皮の全身タイツを着せ、お尻に尻尾を付け、顔に猫のヒゲを生やし、ついでにセットを大きく造って、これで猫ってことにしようという発想はやっぱり素敵だ。なぜなら、ほんの一瞬、猫に見えれば、猫を感じさせればいいだけなのだから。歌舞伎の女形、文楽の人形と一緒だ。それとエリオット原作だけに、この作品がシェイクスピア以来の英国文学のよき伝統の中にあることが、英語の端々からひしひしと感じられた。
かつて「男と女」という大ヒット作を撮った監督、俳優、スタッフらが50年後、まだ誰も死んでいないのをいいことに(F・レイは撮影直後に他界)、同窓会よろしく再集合して続篇を撮ってしまった。思うまま好き勝手をするのが老人の特権とばかりに、男と女が再会するドキュメンタリー風、前作の引用、夢、偽の記憶、なんでもつき混ぜて自由奔放に編集した。映画作りを最高に楽しんだ彼らに嫉妬する。老人ホームのレクリエイションではなく、まさにリークリエイション(再創造)。
久しぶりに俳優の演技を堪能した。体臭と香水の香りが混じり合ってその人の匂いになるように、2人のレイチェルの生の身体と虚構の役柄とが絶妙にブレンドされて深い香りが立ちのぼる。監督は「ナチュラルウーマン」でヒロインをひたすら歩かせたが、この映画でも居場所のない女と居場所から逃げ出したい女とが歩く、歩く。歩く演技ほど、個人と世界との関係を感じさせるものはないだろう。3人の男女が抱き合うラスト、「スカイウォーカーの夜明け」みたいで泣ける。
冒頭、ヒトラーユーゲントの合宿へと街を駆け抜けるジョジョ少年が、後半、戦地と化した街中で立ち尽くすシーンの対比。「芳華-Youth-」(17)同様、美しい日々と戦場のコントラストが見事である。蝶を追った先に母の死を見つけるなど、少年の眼差しに徹した軽妙な語り口が、純粋な怒りとシリアスな余韻を与えている。ビートルズから始まりD・ボウイで終わる選曲、M・ジアッチーノの音楽も素晴らしく“映画”で伝えることに特化した印象だ。S・ロックウェルも相変わらずナイス。
11年3月、劇団四季『キャッツ』を観た時、自分もジェリクルキャッツになったような解放感を味わった。エンターテインメントの力が、東日本大震災直後の強張った心をほぐしてくれたのだと思う。本作もT・フーパー監督が微に入り細を穿つ(猫耳の精緻な動き!)豪華な世界へ観客を誘うが、傍観の域から脱出できず。グリザベラの〈メモリー〉も素敵だが、出色はT・スウィフト扮するボンバルリーナの〈ビューティフル・ゴースト〉。吹替版では、森崎ウィンのミストフェリーズに期待大。
半世紀以上前の名シーンを巧みに織り交ぜつつ、紡ぎ直される「男と女」の物語。記憶を失いかけたジャン=ルイと再会したアンナとの“美しい旅”の、夢か、現実なのか、判然としない危うさがマッチしている。旅の途中で2人を窘める警官の、車の運転スピードは速すぎても遅すぎても危険とは言い得て妙で、若輩者の筆者は、老いらくの愛のスピードに酔った。夕日を見にドライブに出かけるいまの2人に、時の流れを感じた。見逃すには惜しい最後の最後まで“美しい旅”を見届けてほしい。
あるべきところで、音楽が鳴る喜びにあふれている。生徒たちの澄んだ歌声につられて、一緒に口ずさむエスティの笑顔。何年かぶりにロニートが足を踏み入れた実家の、息の詰まりそうな中、ラジオから流れてくる、あかるいポップス。ユダヤ教の理解の足りぬ筆者には、彼女たちが生きることを祝福されていると感じた。しかし深く心に残っているのは、再び故郷を離れる決心をし、きつく髪を結ぶロニートの横顔と、墓地でのラストカットだ。厳然としたカメラワークは、ダニー・コーエン。
本作は、ナチス信奉の少年ジョジョと彼の家に潜んでいたユダヤ人少女の“攻防”を、ギリギリのユーモアで描いた稀な「戦争映画」だ。監督のタイカ・ワイティティはマオリ系ユダヤ人で、その彼自身が幼少から受けた偏見の経験と憎しみからくる葛藤を主人公2人の関係性で体現、さらに自らジョジョの妄想の中のヒットラーとして出演している。その矛盾した存在は、ジョジョにアドバイスを送り続けるのだが、それが滑稽で可笑しいほど、現実の中の不条理が浮き彫りになっていく。
以前舞台版を観た。豪華な美術セットと計算されつくした装置で彩る異世界感、鍛え上げられた演者達の歌唱とダンスに圧倒され頭では凄いと思うが、なぜか心に響かなかった。この映画版、乗れるか乗れないかは冒頭で分かれるだろう。舞台版に敬意を持って映像化しているが、演者を猫化したヴィジュアルエフェクトは斬新、悪趣味なグロテスク演出も盛り込まれている。俺は何を見ているんだ? とまるでトリップしたような感覚に陥る、ある意味舞台版を超えた異世界観だった。
エーメとトランティニャンが並び、おなじみのダバダバダ〜がかかれば、53年経とうが、それはもう「男と女」。本作は、20年後を描いた「Ⅱ」をなかったことにした続篇で、記憶と現実の狭間、その甘美な愛の幻に取り憑かれた男の見た夢。そして、80歳を超えたルルーシュの原点回帰だ。劇中、夜明けのパリをフェラーリで爆走するだけの短篇デビュー作「ランデヴー」の一部が使用されているのだが、このハードなドライバー目線映像の使い方にルルーシュの様々な想いが溢れていてグッときた。
冒頭、ロンドン近郊のシナゴーグでラビが倒れる。その最後の説教は「人は自由意志を持っている。だが、選択は特権であり重荷である」という内容だった。そこから、NYに住むロニートのある一日が描写され、物語が進み始めるのだが、この流れ、その細部に、テーマの本質が垣間見える。主役である3人、そしてロニートの父親であるラビ、それぞれの人生が決して饒舌ではない誠実な演出から滲み出ていた。「自由」に縛られ、不自由を生きる者たちの選択、その解放と痛みが胸に迫る。