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のっけから泣く。別に泣く要素は画面に一つもない。「語り」である。回転数、爆音、スピードはあくまで最大出力でぶちかまし、プロフェッショナル達が最少のやりとりで全てを了解し、涼しげにどんな状況でも手玉に取るアメリカ映画の「ますらお語り」が熱く迫ってくるのだ。泣けない人はアマチュアである。これは実際、フォード社内「プロ対アマ」という話であって、アメリカ映画にあってアマチュアは徹底して悪役である。アマ、アマっていっても女性差別ではないからね。
主人公が脳の障害で藪から棒に奇声を発する。そのリズムはビバップのように痙攣的で、常に前のめりに予想外の跳躍をくり返すフィルム・ノワールの編集そのものだ。ジャズの映画音楽が良すぎて映画を食ってしまいそうだが、強靭なストーリーと匂い立つような風景が少しも引けをとらずに音楽の力と拮抗する。見ていると何本ものノワール傑作が脳裏を去来するが、ここにはとても書き切れない。台詞が多すぎる気もするが、フィルム・ノワールはもともと早口多弁なのである。
観客をどう楽しませるか、欺くか、目的地をどうやってそれとなく知らせるか、という一種のゲームが映画だとするなら、この映画はそのゲームからいったん降りてしまう。劇伴もなく、台詞も少なく、まるで取り付く島もないフィルムを、どこがどう面白いのか、面白がるべきなのか、皆目見当もつかずにひたすらきょとんと眺め続けると、やがてしみじみと人生の風が吹きはじめる。老大家の風格かと思わせて、監督は40歳だという。噛めば噛むほど滋味しみ出す拾いものの一篇。
地を這う霧、十字架の林、動物の仮面、夜の窓、音の演出、そういったものがこちらの神経を苛みつづける。ホラー映画というより、もっと昔からある古典的な恐怖映画のような、子供の頃に見て脳髄に住みついてしまうような恐さ。最近のゾンビ映画では銃、棍棒、塔といった男性のメタファーが支配するが、この映画は森、沼、家といった女性の性的イメージ群に浸されている。S的より、M的な欲動のシグナルが我々を向こうの世界へ手招きしている。結末はハッピーエンド?
シェルビーがスピーチで話していた、彼の父親の言葉を体現したような、幸せな男たちの友情物語だ。やりたいことを仕事にでき、成功するまで努力することを許された環境下では、7000回転の世界で突きつけられる「お前は誰だ?」という問い自体が愚問なのだろう(ケンの夢を応援する妻を演じたC・バルフ、いい女!)。破天荒キャラ・ケンの方がオトナに見えてくる、後半のシェルビーの悪戯レベルアップにどきどきしつつも不幸な男が似合うC・ベイルのパーフェクトな役作りには脱帽。
舞台を原作の90年代から50年代に変更し、ハードボイルド度がアップ(B・ウィルス、W・デフォーらの渋さが際立つ)。更に日本人ネタを一掃し、ビッグなアメリカン・ムービーに仕立てている。監督、脚本、製作を務める天才、E・ノートンが主人公のライオネルを演じたことで、原作に描かれる、トゥレット症候群の闇、即ち「世界」との「果てしない鬼ごっこ」と、大都会の闇が重なり合い、作品世界に陰翳をもたらす。映画を彩るモダン・ジャズも、主人公の脳内と融合して、魅力的だ。
フィンランド語のタイトルは「微笑む男」。監督の言葉を借りれば、フィンランド人にとって「微笑む男」とは異常者=かなり珍しい存在なのだとか。このタイトルの方がしっくりくる程度に意表をつかれた。描かれるのは、大事な世界タイトル戦を控えたボクサーの話ではなく、ボクシングをしているフィンランド人男性が、恋をして、婚約する、大変な愛の物語だから。実話に基づくお話らしく、過剰に煽りもせず、ドキュメンタリーのように淡々と描かれる愛の芽生えは、たしかに微笑ましい。
原作を読んで想像した猫と映像との違和感みたいなものが全篇につきまとう。S・キングが原作で描こうとしたのは、生理的な恐怖(大型トラックの迫力満点!)ではなく、愛する者を失った哀しみからタブーを犯してしまう人間の究極の恐怖だろう。キング自ら脚本を書いた「ペット・セメタリー」(89)然り、残念ながらそれは小説以外のメディアでは表現しにくいものなのかも。父親の葛藤の欠落、呪われた力で帰ってくる子供、ラストなど、原作との違いにも、脚色の愛の限界を感じた。
主要な登場人物全員が負け犬、という始まりから熱い。タイトルこそ「vsフェラーリ」だが、内容はほとんど「フォード経営陣vsレースカー開発チーム」だ。ル・マンでの打倒フェラーリの為にフォードに雇われたシェルビーら開発チーム。純粋なレースでの勝利、スピードの限界へ挑戦する彼らと企業としてマーケット戦略での勝利に固執する経営陣との“負け犬の戦い方”の相違、軋轢。壮絶なレースの終盤、その全ての戦いに答えを出すドライバーのケンの選択に新しいカタルシスを感じた。
50年代のNY、探偵が腐敗した都市の闇に巻き込まれた美女を救う普遍的なノワール、と思いきや主人公は、トゥレット症候群で思ったことをすぐ口に出してしまうが驚異的な記憶力も持つという設定。これが全体的にダークなトーンをギリギリのユーモアとして乱していてそれが本作の魅力だ。演じるノートンが監督も兼任しているので、その絶妙なバランスを表裏でコントロール、彼自身の祖父が実際に関わっていた都市計画を基にした物語でもあり、思い入れ満載の理想的な自作自演作品。
映像素材の断片を一見荒削りに並べただけのような編集が好きなのだが、ちゃんと計算された荒削りじゃないと当然ただの「素材集」になる。62年が舞台の本作は16㎜カメラで撮られており、まるで当時の記録映像をあとから誰かが繋ぎ合わせたような錯覚をさせられ、冒頭からその編集センスの良さにやられた(そういえば主役である実在のボクサー、オリが記録映画の被写体になるエピソードも)。世紀の世界戦までの数週間の物語を、ただの「恋愛の記録」としてまとめているところが憎い。
原作は、キングの私的要素が特に強く、“違和感を覚える展開”の連続だった。主人公一家が小さな子供がいるのに、トラックがバンバン通る道路前の家に引っ越すなど、全篇強引なフリに見えるが、これがほぼ作家になる前のキングの実体験ということで「事実は小説よりも〜」を小説にしているのが面白い。89年の映画化はその私的な部分を意識していたが、本作は「生と死の狭間の存在」を深化させるため後半の展開を変えた。ドラマは濃くなったが、恐怖の疑似体験はやや物足りなかった。