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全ては金、それに群がる人のありふれた欲望の物語をゲーム感覚で料理したら――と、相変わらずな“エンタメ”路線の安易さに辟易しながら、でもこの蜷川仕込みの俳優藤原vs吉田の大芝居、人間秤りの装置の張りぼてっぽさ、そして世の腐敗への批判のこめ方をいっそ令和の時代の歌舞伎として愉しんでしまうこともできるかもと腹を括ってみた。それでもご都合主義の筋には目をつむり切れないものがあるが……。終幕の対決、望遠で撮ったスタジアムの臨場感はちょっとスリリング。
祭りの後のシラケの気分にも一段落がついた70年代半ばにかけて、マイケル・フランクスの『アート・オブ・ティー』等々、メロウな曲に浸った時期もあったけれど、その“ほどほど感”に包まれつつ、うっすらとした恥かしさも感じていたなあと、「メロウ」と銘打った映画を見ながらふと、往時の感触を思い出した。いかにもほどほどにすれ違う男女の物語は不快なこともないけれど、他人事のまま通過していく。ともさか、唯野の居る場面だけゆるさが地に足ついていて面白かった。
「アイリッシュマン」の、H・カイテルまでちゃんと居るスコセージ組同窓会ぶりにはやはり胸を突かれた。それがなれあいの腐臭を回避し得ているのは俳優たちの確かな演技と存在の力あってこそだろう。同様のことを岩井監督の新作に帰ってきてそれぞれに輝いている俳優たちを前に思った。その力を引き出す上で語りたいことを持つ一作の強味のことも思い監督の手になる原作がまず書かれたことの強さについて考えたいと思った。手紙、写真機、夏休み、水、重層的時のモチーフについても。
「愛がなんだ」以後、続々公開される今泉監督作。この「his」もそつなく仕上げてはいるけれど、もひとつ響くものがない。「愛が」のヒロインの想いの偏執狂的なおかしさ、周囲の面々の描き込みの濃やかさに比べるとここにある葛藤はあまりに薄味で笑いにも涙にも行き着かない。結局、山里での隠遁生活を選ぶゲイ・カップルを前に男と女、男と男、人と人、性差を超えて都市に生きる存在そのものの孤独をみつめたロウ・イエ「スプリング・フィーバー」をつい懐かしんだ。
現代日本映画の悪癖がすべてつまっていると言っても過言でない前二作。今回は原作者みずから参加した脚本と若手・ベテラン取り合わせた役者陣にドリームジャンプ的な飛躍を期待したが、開始早々、虚しく綱が切れてしまった。隠喩のかけらもないミエミエの伏線と無粋な説明台詞。現実の社会状況とリンクさせうる素材にもかかわらず、これではそんな切れ味は望むべくもない。唯一胸が躍ったのは伊武雅刀と斉木しげるが旧友同士という設定で共演していること。おお、ドラマンス!
以前、グーグルで「エリック・ロメール」と検索すると、今泉力哉監督の顔写真がヒットすることがちょっとしたネタになっていたが、この作品はまさにロメール的。前作までとくらべると一見毒は抑えめ。しかし、天然モテ男・田中圭の所作に、もしかしたらこれは計算ずくなのか、と思わせる含みをもたせることで、ともさかりえ演じる人妻から想いを打ち明けられるシーンなどに読みの幅を与えている(岡崎紗絵演じるラーメン店主も然り)。説明的な雑景ショットの多用はマイナス。
岩井俊二の映画は、叙情などという表現ではおさまらない、人間の独善性についての考察であると言ってよい。恋愛感情とは独善性の暴走であり、ゆえに当事者にとっては際限を知らぬ甘美な陶酔である。しかも岩井作品においては、その陶酔はまたべつの陶酔に溺れる第三者によって鏡像認知的にお墨付きを与えられ、「完全なる幻想」として永久に美化されつづけるのだ。試写室のあちこちから漏れ聞こえてきた鼻水をすする音がその完成度を物語っている。万感をこめて「私は薦めない」。
一歩踏み外せば白々しくも押しつけがましくも映ってしまう設定や人物像を、ぎりぎりの大胆さで成立させているのはやはり演出の手腕だろう。作劇がいささか子どもの饒舌に頼りすぎている点と、弁護士二人のわかりやすい対比のさせ方に疑問は残るが、それじたいが「ことば」をめぐって迷走する現代のコミュニケーションの批評的誇張と考えればわるくない。役者のアンサンブルもみごと。とりわけ終盤、中村久美の目線だけである心象を語らせようとする描写の丁寧さは特筆に値する。
オリンピックのあとの景気失速で悪夢化した近未来というのがいい。次に、カイジの藤原竜也の、足りないものを意識できた気楽さありのスター演技。そして、金塊の重さ比べやジャンケンで勝負というゲームの、ありえないほどの単純さ。幼稚といえば幼稚だが、娯楽映画、このくらいやれば合格というラインの上に、逆説的な「ようこそ底辺の生活へ」の、敵と味方をはっきりさせた抗議と遊びがある。佐藤監督、そつなくまとめている。桐野加奈子のラッキーガール、出番がもっとあるべきだ。
さまざまの「好き」のヴァリエーションをちりばめる。意外性ありの「好き」だが、そうなのかと納得させるそれだ。田中圭の主人公はちょっと変わった花屋をやっている。自分の「好き」は胸にしまって、独身。やさしい。そういう彼がいくつかの方位から「好き」を引きよせる。我慢していることがある。どう報いられるのか。そこを焦らずに探る感じの今泉監督、オリジナル脚本。彼の作品のなかでも、とくにこれは世界への肯定感がある。岡崎沙絵のつくるラーメンの味、合格だったろう。
岩井作品、やはり驚かされる。理屈で追っても取り逃がしそうなマジックがあるのだ。たとえばひとつの嘘に対して、話が動いたあとで「ごめんなさい」「いや、わかっていた」と収めるところなど。ずるいと思わせないうちにきれいに逃げ切っている。映画だからこその語り方の魅惑。だとすれば簡単だが、画、編集、音、どれも技術的に高度というだけでなく、この世界のいまを立体的に感じとっている。故郷で撮影した。暗い部分への踏み込みもありながら、重くない。演技も、作品の表情も。
もう少し工夫があってもよかったと思うのは、対比される都会と田舎、それぞれの画の作り方と、音のズリ上げを多用する話の運び方。いかにもそれらしい景色に頼りすぎているかもしれない。しかし、宮沢氷魚と藤原季節の演じるゲイの二人の「どう生きるか」に関しては、決めるべきは決めている鮮度ある明快さを感じた。親権をめぐる裁判に向かうあたり、ダグラス・サーク的になるかという緊迫感も。今泉監督、愛の作家。でも幸いにか、人を誘い込むような夢を広げるロマン派ではない。