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「i」とあくまで小文字の私を掲げたタイトルの意味を嚙みしめた。団体行動は苦手と新聞記者望月衣塑子を紹介する監督自身のナレーション、その重みを裏打ちするように、キャリーバッグを携えてひとり、駅構内の階段を上り、街を行く記者の姿を映画は積み重ねる。そうやって、ばかげた政府と首相官邸、そこに蠢くばかげた問題そのものよりも、個としてそこに切り込む望月のスタンスをみつめ、ジャーナリズムの側の“みんな一緒”体質、体制を突く。監督森の時機を捉える才がまた光る。
警察小説で「組織と個人」の関係性を描いてきたが「アウトローを主人公に据え、組織人とは真逆の目線を獲得する」「位相の転換」で「世間」「社会の組織性を可視化」できると思い至った。「ノワールとしてのクールさより」「ウェットな相克について書きたかった」と、プレスで語る原作者の言葉に目をとめれば映画版の主人公の煮え切らなさもありなのかと思ってみる。が、その彼の世間との相克と、過去、“聖三角の恋”、“影”との葛藤とを粋に並立させる脚色の術、探って欲しかった。
町、店、人、映画。世界から消えていく場所、存在を悼む心を刻んだ記録の映像。その圧倒的な力、涙ぐましさ。そこに溢れる詩情。それは中川龍太郎の世界を知らずにきた怠け者に全作に出会おうと決意させる磁力をつきつけてきた。そうしてその映画歴に息づいていた女優達(中村映里子、高橋愛実、榊林乃愛、朝倉あき等々)の輝やかしさ。それを目にした以上、この映画のヒロインの表情の鈍さは余りに惜しく、だからこそ敢えて「私は薦めない」といっておきたい。次作を待ちつつ。
「その着想は、芸人・永野のファッションイベントでの“違和感”」で、「顔デカ、モデル、小顔矯正、日本文化、合コンで鼻取れる女、サスペンス、ホラー、そしてコメディ……というキーワードの数々」から出来上がった映画はでも、笑えない。串刺しのモチーフだけで転がるものを映画とは呼びたくない。この笑えなさ、この不快さが日本の今だといいたいのかと百歩譲って思ってみても空しさは拭えない。「ビューティフル・デイ」のJ・フェニックスもどきの後半の主人公も上滑りで残念。
同プロデューサーによる『新聞記者』は、制作意図には共鳴しつつ、権力に立ち向かう側の自明性・無謬性にもとづく対立図式のステレオタイプが気になった。さて森達也によるこの作品だが、総理官邸に入れなかった森が官邸に生い茂る竹藪を撮る場面に作り手の基本姿勢があらわれている。対立図式に陥ることを周到に避け、望月記者や彼女が接触する人々、政府、警察、さらに森自身の姿を彼らが置かれた場の周縁からとらえることで、メディアの内と外の様相を一緒くたにあばき出す。
篠原哲雄の、説明的になる寸前で奇妙な説得力を帯びるダイアローグ、アレゴリーに陥る一歩手前でゆるやかにひらかれる画面の構築力はもっと評価されてよい。時制と因縁が複雑に入り乱れるこの物語では、そうした個性がおおむね吉と出た。主演の山崎まさよしは、瞳の翳りとぶっきらぼうな口跡が役柄に合い、下手な演技派よりもそれらしい存在感を醸し出している。難役の滝藤賢一もみごとだ。少年時代のシークエンスは、演技のさせ方ふくめ、もう一工夫ほしかった。
現在の日本映画において、「場所」を映す、「空間」をとらえる、という意思のもとに撮られた作品は思いのほか少ない。「場所」とは生きた人間の営みの場であり、「空間」とは心象の在り様そのものである。そのことを理解している作り手は、場所/空間のなかに人物を配するのでなく、場所/空間と人物の関係性をとらえようとする。中川龍太郎はそのような稀有な作り手の一人だ。映画を観ながら、以前住んでいたアパートの近所にあった銭湯(昨年取り壊された)の風景を思い出した。
半世紀前に描かれた長新太や井上洋介のナンセンス漫画がそうであったように、極限まで研ぎ澄まされた笑いは本来それじたいアートなのだが、わざわざアート的な意匠を凝らして尖端ぶった表現は、作り手の自我をも笑い飛ばすほどの強度をもたず、ただただ痛々しく空回りするだけである。それどころか「このコントを笑えない人間は小さくないか?」と悦に入っているのだから始末がわるい。せめて「くだらなさ」の追求に徹してくれればと思ったが、半端な社会諷刺でそれもかなわず。
「当たり前のこと」から出発する望月衣塑子の奮闘ぶりと魅力。彼女がぶつかる安倍政権下のごまかしの数々。菅や麻生を何が許しているのか。構造とそのなかの人間が見えてくる。森監督、まず共感するのは自分の出し方。取材の過程で立ちふさがるものを表現に組み込み、控えめにだがドキュメンタリーの枠も押しひろげている。たとえば籠池夫妻、とくに妻の人間味をとらえた部分とイワシの群れのイメージショットなどが同居する。i=「一人称、私」を核とする問いかけは明快だ。
山崎まさよし演じる「ノビ師」の天才。不覚にも捕まった過去を冒頭におき、二年後、刑期を終えてからが現在。二十年前の大過去が回想で入る。こういう犯罪者、いるだろうか。それはおいても、大過去の「炎」を解消するまでという軸に、驚くべきファンタジー的設定もあって、事件の謎解きがうまく絡まない。篠原監督、落ち着きすぎだ。作品の異色性に対して。ホッとしたのは、尾野真千子が親しくない中村ゆりに料理を作って「塩が足りない」「シワがふえるよ」とやりとりするシーン。
まず気に入ったのは、故郷を出たヒロインがやってくるのが葛飾区立石であること。引きめのショットが多く、人とともに風景と事物にものを言わせている。それが少し作為的すぎる場合も。独特のモタモタ感ありの天使性を発揮する松本穂香と、得意の、人生に疲れた男の味で押し切る光石研の二人以外の、人物の見え方、どうなのかなと思った。とはいえ、中川監督の表現は楽しい。山村暮鳥の詩の力も借りて決めどころを作り、失われていくものへの哀惜を受け身の感情にとどまらせない。
「小顔になりたい」若い女性と「若い男をつなぎとめたい」年配女性を、どんな目にあわせてもかまわないかのように扱う。顔を変形させる。首を切断して命を奪う。作中では事故的にそうなるけど、清水監督たちは意図をもってやっている。愚かな願望とそれにつけこむ浅知恵。そういうものの戯画を極端化するが、これがやはり浅知恵、粗雑。出番が多いのは整顔師として登場して最後は死刑室に送られる斎藤工だが、主役は頭を挟む万力装置か。このチームを窮屈なところに追いつめている。