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変わりゆく時代の中で「本当に人間らしい生き方」を問うオリジナル脚本の意図は面白いし、単に無欲の善人だったりはしない船頭、そういう主人公を描こうとしたことも興味深い。ただ、その物語の語り方、撮り方が意図や人物設定と齟齬を来して居心地悪さが募ってくる。時代や場所を敢えて曖昧にして語り撮るのなら船頭の過去、その記憶の生々しさよりもっと寓話性を研いでみて欲しかった。自然、特に川のスケールもこの生の物語と拮抗させるなら大き過ぎない方がよくはなかったか。
なんだか外国人監督、例えば乱調の美学のK・ラッセルが撮った太宰の伝記映画みたいな世界の徹底的に自分流の創り上げ方、そのくせ津軽の寺の地獄絵のおどろおどろしさも射抜くような意匠はいっそありかもと違和感が蹴散らされる。という意味で監督蜷川の力は無視し難い。おまけにラッセルの伝記映画同様、押さえるべき事実は疎かにしていない。脚本早船の力もここで感知される。が、女性像となると比べる科を自認しつつもやはり田中陽造版「ヴィヨンの妻」の悲しさを懐かしんだ。
ヒロインの背中をみつめる眼差しで幕を上げる一篇はいったいこれはだれの目とぬかりなくそこで思わせて、そういうささやかだけど大事な細部に映画の命は宿るのだといったことを改めてしっくりと思わせる。黒澤の映画みたいなどしゃぶりの雨。アルトマン映画みたいに同時に喋る人々。昨今あまり出会えない映画らしさの瞬間に包まれる。その幸せがもう少し、物語と融け合ってくれればなあと、“同葬会”のもたつきを前に少し呆然とした。坊さんっぷりが板につき過ぎの栗塚旭、声も素敵。
韓国映画「ブラインド」、その中国でのリメイク「見えない目撃者」、前2作以上に嚙みごたえある3本目となった。多層的なプロットのからめ方、失くした弟へのヒロインの償いの気持を請け負う年下の男の子の活かし方、はたまた刑事のひとりに定年間際の設定を盛り込み、猟奇趣味も加味してさらには犯人の正体が開巻早々、見えていた前二作にない謎解き要素もと、盛りだくさんのスリルとサスペンスをそれなりに消化して興味を持続させる。ヒロインの成長の物語も紋切型だが悪くはない。
達者な俳優たちと最高峰のスタッフが集結。とくに、遺体をはこぶ夜のシーンやラストのロングショットなど、クリストファー・ドイルの撮影は息をのむほど美しい。しかし、端正な画面とは裏腹に、いや、端正であるがゆえに、すべてが「それっぽさ」のうちに完結してしまっている。不穏さを醸し出す場面での映像処理や音声エフェクト、アンビエントな音楽演出のスタイリッシュな凡庸さも鼻につく。オダギリ監督の強い意志は十分に感じられるため、気取りの抜けた次回作に期待したい。
最後にクレジットされるとおり、これは太宰の実人生に想を得たフィクションなのだが、『人間失格』を到達点にさだめると、紋切り型の「無頼」「破滅」「ナルシシズム」が前景化するばかりで、陳腐な話にしかならない(この作品に限らないが、なぜ『グッド・バイ』を軽んじるのか)。「女性から見た太宰を描く」というねらいのわりに、三人の女性もまた物語上の要請に従って動くだけの空疎な存在になってしまっている。極めつけは三島由紀夫との対面シーン。あれじゃただの駄々っ子だ。
撮影に中堀正夫、照明アドバイザーに牛場賢二を迎え、いたるところに実相寺昭雄へのオマージュをちりばめている。題材とあいまって、さながら『波の盆』のよう(上野耕路の音楽もどことなく武満徹っぽい)。だが、それ以上の飛躍や昂揚があるかと問われれば、どうにも目配せに終始してしまった感は拭えない。あえて舞台調のダイアローグしかり、大林宣彦作品を思わせる地域性や歴史への言及しかり。そんななかで前田敦子が一人、卓越した個性と存在感で映画を引っ張っている。
韓国、中国、日本と三度も映画化されている題材だけに、ベースとなる物語に観客をひきつける推進力があり、この作品も中盤までは一定の緊張感を保っている。盲導犬と見せ場の絡め方や犯人が明かされるまでのディテイルなど、シナリオにも苦心の跡が見える。だが、そうして趣向を凝らした反面、各人物の言動にシチュエーションありきの不自然さが目立つ。とりわけ後半は、どの人物もほぼ自発的に危機的状況にはまり込んでいくため、観客の同調性が削がれてしまう。惜しい力作。
現代俳優図鑑と言いたくなりそうなほど、いろんな役者が出る。カメラのドイルを筆頭にスタッフも相当の贅沢さ。一方、逃げだしたくなるような、きびしい現場の条件も見えてくる。そういうなかで柄本明と新人川島鈴遥、しっかり立っていると思った。オダギリ監督、オリジナル脚本。やりたいことをやり、言うべきことを言っている。ユニークで好感度大であるが、言葉が練られていないのは惜しい。とくに急ぐ必要もないと言いたげな長さ。これが映画だと唸らせるショット、あった。
男性一人対女性二人ではもう劇が成立しにくいのは方々で気づかれているが、では対三人はどうなのか。実は時代の変化以前のところで、三人の女優が十分に力を発揮しきれないということがある。これはそうだ。他の面でも飽食的に余る感じのものが。そのひとつである色彩表現を別にすれば、「さくらん」以来、蜷川監督は半世紀前の優秀な男性監督のやりたがったことをやっていると思う。そのことも、軽みと甘さよりもシリアスさが勝つ気配の小栗旬の太宰治も、新味があるかは微妙だ。
樋口監督と協力者たちが楽しく作っているのが想像できる。その楽しさが作品全体のぎこちなさを上まわる瞬間が訪れただろうか。映画、そんなに簡単じゃないと思わされた。いや、教えられたと言うべきか。巧い下手じゃなく、作品を構成する要素の有機的な連絡への、もっと端的には画の決まり方へのこだわりが感じられない。話の進行としては、川端康成の初期から拾った「体験」を、川端的な味を抜いて前田敦子に担わせているが、事実の隠し方と現れ方に確たる理由が見えない。
元警官の、吉岡里帆のヒロイン。不自由な目で「目撃」した犯人に執着することで、前途に希望なしの少年とともに立ち直ろうとするが、警察の出し方、どうだろうか。組織としてはその非を認めず、大事なときに間に合わない。例によってという程度かもしれないが、物語の展開の上で便利な装置にしすぎている。終盤の見せ場は考え抜いてあり、森監督の力を感じさせる。しかし、残虐と凶悪の表現にはとくにこの世界をどう見るか、どう呪うかという思考が必要だ。それが足りない。