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物語の根幹から誰しも彷彿するのがジャン・ジュネの犯罪や性倒錯という背徳哲学、そしてカルリートスの美しい横顔からはジャン・コクトーの素描であろう。完全に外部で盗み続ける(=生き続ける)彼の過程は、こちら側の世界の反転した自画像。人間社会に刺さる永遠の棘とも言える。ジュネは「空間は奪われるもの」で「時間は聖なるもの」と言う。カルリートスにとって盗みに入った家でも牢獄であろうと違いはさほどない。時間に関係する、生きること(=盗むこと)が重要だったのだ。
南イタリアの小さな港町。犬のトリミングサロンで働くマルチェロは犬や娘を愛する心優しき小市民であると同時に、街の暴力者のシモーネには窃盗の協力をせざるを得ない脆弱さも併せ持つ。しかし徐々にマルチェロの良心や弱さではなく、彼の制御できない狂気的な哲学が噴出してくる。それは「犬」という動物の哀しくも強さでもある性分にも通ずる。飼い主への絶対の服従は、本分をこえ「服従」という強く倒錯したプライドに変化していく。そこではもはや飼い主不在の従属のみが残る。
「ボヘミアン・ラプソディ」の撮影最後の数週間を引継いだデクスター・フレッチャー監督作品。薬物依存更正施設の車座での告白シーンが物語に通底されていて、文字通りステージ衣裳を脱ぎ捨てて身も心も裸に近づいていく。存命中の本人による製作総指揮という珍しい作品で、本人が自身の半生の語り直す。人生において理解できないこと、納得しがたいことを映画に投影することでの自己治癒効果。劇中の告白と実際の映画製作という二重の語り直しの入れ子構造であるところが興味深い。
今年のドキュメンタリー暫定1位。「不在」を追い求め彷徨い続けるカメラ。ジルベルトという亡霊に取り憑かれ、故マーク・フィッシャーの足跡とジルベルトの残り香に戯れる。ボサノヴァというウィスパー音楽はブラジルの住宅事情により派生したと聞く。そもそも壁の向こう側から流れてくる調べは否応なしに「不在性」が関わってくる。フィッシャーは「音楽は終わらない。部屋のものと結びつき空気や僕たちと繋がっていく」「消え残ったのだ」と。これこそ映像体験そのものではないか。
耽美系少年愛映画風の宣伝で男性客を遠ざけてるが、正味はセクシュアリティ不安を抱えた美貌のナチュラルボーンキラーがベルボトムのズボンからもぞもぞ二丁拳銃をとりだし男を殺しまくるクライムムービー色の濃い内容。男性客にも充分楽しめる。BGMに流れるアルゼンチンの70年代サイケデリック・ロックにも激しく萌え。サントラ欲しい。ジェンダームービーとグラインドハウスの合体は政治的なのか倒錯か。カタルシスを寸止めしてムズムズ感を残す連続射殺魔映画。
犬かわいい。パイセン怖い。ヤンキーカーストは万国共通なテーマ。南イタリアの殺風景を舞台にすると微妙にオシャレ感が増すが本質は通俗映画で主人公の人物像は「現代やくざ 血桜三兄弟」の荒木一郎等にも似たり。岸和田ならぬナポリの「カオルちゃん」のクンロクに耐える生涯一パシリ中年の痛みに満ちた日常は日本なら大事件。されどあっちはカモッラ本拠ってことか地元警察は余裕で静観。ワンちゃんにホッコリしつつ破壊衝動を得たい人に推薦。
昭和世代にとりエルトンのミュージカルの代名詞だったケン・ラッセル「トミー」に本作は重なる。少年期の虐待トラウマ、夢の実現と神への接近、母との関係、主人公が成功し舞台仕掛けが派手になるほど気持ちが暗鬱になるもどかしさ。娯楽性で「トミー」ほど突き抜けてないのは製作に関わったエルトン自身が被害意識を主張しすぎなんじゃ? 楽しいことも随分あったろうに。俳優のイマイチなボーカルを除けば悪くない演出、序盤の軽快ムードで最後まで押しきってほしかった。
哀悼ジョアン・ジルベルト。とろけるような彼のボサノヴァとリオの美しい風景が観客を甘やかなシエスタに導く中年男のセンチメンタル・ジャーニー。にしても世界が認める生きる伝説に電凸面会を試みるってあまりにも無謀な気が。加えてドイツに21世紀までジョアンを知らなかった人間がいた事実にも啞然。かの男は手紙に「あなたの音楽をドイツに広めたい」と本気で書いたのか?監督の態度を果敢ととるか非礼とみるか。謎な結末も成果か自虐か観賞後の裏読みが盛り上がる。
本質は意外と渋い犯罪映画。プロデューサーのペドロ・アルモドバルの粘度と退廃美が、監督のルイス・オルテガの持ち味らしいフィルム・ノワール風味と、良い配分であわさっている。同性愛の傾向を示しながらそちらに傾斜しすぎない、独特の意固地さのようなものも映画を乾いた空気にしている。美貌の冷血な主人公が、犯罪とダンスの瞬間だけ能動的になる危うさと官能性。主人公を演じるロレンソ・フェロの容貌は、1971年という時代設定もあって日本の少女漫画を髣髴とさせる。
実話からインスピレーションを受けた映画だが、孤独を巡り寓話性の高い物語となっている。犬のサロンの無機的で寂れた内装には、いいしれぬ不安がかき立てられるし、曇り空と水はけの悪い地面のロケーションも陰鬱で効果的だ。主人公マルチェロと暴力的な友人シモーネの関係は、抑圧的ながら閉ざされた小さな町の息苦しさによって共依存も生み出す。一見不条理だが、屈折した憤りと人恋しさが絶妙に混じり合っていて、いかにも人間らしい矛盾した感情がスッと流れ込んでくる。
キッチュな衣裳と『黄昏のレンガ路』という、象徴的なファーストシーンに鮮烈な印象を受けたが、その喜悦を超えるカットが続かない。ストーリーがエルトン・ジョンによる自己憐憫と他責的な訴えに覆われて、暗くよどんでしまっている。ミュージカルとしての楽しさ、奇抜さを丹念に演出しつつも、エルトンの孤独に苦しむ描写に空気が引きずられすぎているようだ。成長期、麻薬中毒期に偏って、絶頂期が薄い比重も満足感が足りない。T・エガートンは肉感的でなりきりぶりも奮闘。
監督のG・ガショ自身がジルベルトとの邂逅を求めてさまようのだが、映画を牽引するほど魅力的な人物とは思えず、いささか自己愛を感じた。逝去したライターのマーク・フィッシャーがジルベルトに会おうとする顚末を描いた本からの引用と、監督自身のナレーションの境目が曖昧なのも混乱する。大御所マルコス・ヴァーリのインタビューなどは観る価値があるが、ジルベルトの周縁をさまよいながらも核心にはなかなか踏み込んでいこうとしない展開を、長々と見せられるのはじれったい。