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ウェルメイドな聖林映画の娯楽を要とする心を受け継ぐインディ出身監督矢口、その失われたジャンル/ミュージカルへの冒険は、踊り出したら止まれないヒロインの「赤い靴」、「雨に唄えば」のソファー背倒し等々、さりげなく古典をふまえつつ暴走ヒロインのロードムーヴィーへ、要は自分の世界への引き込みもしらりと断行し、ともかく愉しませる。「舞妓はレディ」に続き今回は“ミュージカルの素人”ヘプバーンの「パリの恋人」での活かし方を睨むような桝井Pの挑戦としても興味深い。
男の英雄神話を覆すため息子を呼び寄せる愛人の復讐/愛の物語――ベルトルッチ「暗殺のオペラ」(原題“蜘蛛の戦略”)をふと思わせもする映画は、結婚を控えかつて身も心も捧げた従兄を故郷に召喚するヒロイン、その企みの恋に先導されて終わりの世界を生きる覚悟をきめていくふたりの、もう若くない青春の寂寥にくらりとしつつまずは女の映画として堪能したのだが、実はからめとられた男の話としてこそ味わい深いのかと反芻する度、別の貌が見えてくる監督+脚本荒井3本目の快打!
「お百姓さん~」という映画がそうというのではないが「競争社会から共生社会へとシフトする、新しい幸せの物差し」とチラシにあるような姿勢の向こうに垣間見える“公明正大さ”、“自然”や“弱者”の側に立てばオッケーみたいな世の風潮にはつい抵抗したくなる。“沖縄”もまた同様の抵抗感を招きかねないテーマともなり得るのだが、この瀬長亀次郎をめぐる記録映画にも、記録された人にも染みついた、新味など歯牙にもかけない武骨な在り方、それが見る者を巻き込む力となっている。
「誰もが生き生きと暮らしていける社会を」と28歳でお百姓さんになった青年の「不揃いであることが自然の本来の姿」「人間も同じ」との信念に共感する撮り手の撮りたいという気持ちは、プレスにある「なぜ、この映画を撮ったのか」と銘打たれたノートを読むと成程と思えるのだが、映画と向き合う限り青年をみつめる目と、彼が採る方法、はたまたそこに集う人々への目とがやや漫然と連なるばかりといった印象に陥っている。核心を強調しない語り方がもひとつ機能していない点が残念だ。
さすが矢口史靖。当意即妙のアイデアがつるべ打ちのシナリオはすこぶる快調、シチュエーションや人物のカリカチュアも絶妙なラインで、終始飽きさせない。なにより主演の三吉彩花の魅力が十二分に引き出され、彼女の表情や動きを眺めているだけでも楽しめる。肝心のミュージカルシーンは、観ているこちらが思わず一緒に踊り出したくなるような高揚感には欠けるが、呆気にとられる周囲をよそに強制的に踊らされるという設定ゆえ、おそらくある程度は意図されたものなのだろう。
白石一文の小説を映画化するなら絶対に荒井晴彦(もしくは井上淳一)だろうと考えていたので、これは待望の一作。日本でもっともセックスの体位に細かい(と思われる)脚本家の作品だけにセックスシーンは大いに見せる。が、それ以上にラーメンやレバニラ、手作りハンバーグを食べるシーンのそこはかとない親密さに、映画のなかの二人に対する作り手のやさしさがにじみ出ていて、ほっこりさせられた。野村佐紀子の写真、蜷川みほの絵画の使われ方も効果的。
「映像の世紀」の名ナレーター・山根基世と役所広司の語り、さらに坂本龍一の音楽と、いささかお膳立てが整いすぎて、「ドキュメンタリー映画」としては快い破綻に欠ける。TV報道的なイメージショットは極力排し、もっと話し手一人ひとりの表情や語りの間を重視してほしかった。とはいえ、瀬長亀次郎の言葉の実直さ、その生き方のぶれなさには、やがて熱いものが込み上げてくる。瀬長の追及に対する佐藤栄作の答弁は、昨今の国会で見られる光景とも寸分違わぬ欺瞞に満ちている。
無肥料自然栽培に取り組む明石誠一さんを中心に、新規就農にまつわる困難や試行錯誤が丁寧にとらえられている。ことに障害をもった人々が農業に参加する様子が時間をかけて描かれる点は、作り手がなにを見せたいかが明確にあらわれていると感じた。評者のように農業に疎い人間でも、彼らの営みがグローバル化、大企業化する社会のなかで、どのような意味をもつのかを考えさせられる。日常を淡々と映しながら、芯の部分には野菜とおなじくたっぷり栄養が詰まった作品だ。
ミュージカルでの歌と踊りの不自然さを催眠術でそうなることにしたら、という発想。音楽場面への入り方のシャープさ、全体の音響構成の滑らかさ、もっと欲しいし、ときに相当泥くさくもなるが、もうこの種のミュージカルはそうであるしかないのかもしれない。直線的ながら弾力あるヒロイン三吉彩花を支えるように、癖ある出演者たちがそれぞれに奮闘。矢口監督らしい手作り的仕掛けが最後には功を奏した。何を応援する方向の楽しさにするのか。ゴールへの道のりを踏みちがえていない。
表現への苦闘らしきものを見せない荒井監督作。大胆なのは、登場人物二人だけのその二人の間の、説明ゼリフの連発。そして二人の過去が写真で存在すること。セックス、なじみのある相手が一番という退行的物語にどう前を向かせるか。実は大変だ。グルメと震災関連の話題が浅く持ち込まれ、肝心の「気持ちいい」と「体の言い分」のアクションは苦行的。最後の非常時への追い込みも絵空事的。だが、大人の常識的チェックが入って表現は安定し、二人は破滅を免れる。退屈はさせない。
佐古監督による瀬長亀次郎についての映画二本目。今回は、残された二三〇冊以上の日記の言葉を読み解くことに主眼をおく。そうなのだが、日記に対する「引用」以上のアクションを映像にしていない。監督か、カメジローの娘さんか、あるいは他のだれかの、日記の文字を追う姿が欲しかった。一二八分もの長さ。尺の多くが費やされるのは、同時代者による回想の人物評。現在が足りない。カメジローが精神的な柱となっているとされる「オール沖縄」を取り囲むものへの矢が飛んでない。
農業を題材にした作品、十本目という原村監督。今回はとくに軽さを意識したのかもしれないが、農作業する人たちと同じ地面に立つというよりも横から覗き込むような画が多いのは、どうしたことか。ナレーションの甘さもあって表現に迫力がない。失敗と実験を重ねながらの「自然栽培」の農法、そのやりがいと大変さから、自然の根底にある力への敬意と驚き、障がいをもつ人の受け入れや家族で農業をすることの幸福まで、話題はあっても、世界が見えない。文句なしのおいしい食べ物も。