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セクハラだ、#MeTooだ、とかつてない逆風のなかで、中年男性が恋だの愛だのと口にだすことすら憚られる、このご時世。50歳を目前にして、若い女性の胸の谷間にときめきを感じ、車いす女性のヒロインと恋におちる嘘つき男に、共感を寄せて良いのかどうか。日本では許されなくても、愛について延々と語りあうことができるフランスなら可能か。野暮をいわず、遊び人の男が本当の恋に落ちるラブコメとして楽しもうとしたが、かつての無垢だった時代に戻れないことを悟るばかり……。
隣の「パリ、嘘つきな恋」とは対照的に、同じフランス映画でも日々奮闘する女性たちを描いた群像劇。ベビーシッター、大学教授、お花屋さんといった働く女性が、仕事と家族と恋愛の間で葛藤し、自分なりの生き方を見つける姿を描く。が、女性大統領が登場したときに正直げんなりした。物語を通して伝わってくるメッセージは尊いと思うが、それが作者の頭のなかに先にあり、映像や登場人物や物語がメッセージに従属しているように見える。それでは代理店がつくるCMと変わらない。
以前、渋谷のアップリンクでツール・ド・フランスに関するドキュメンタリーが一挙に3本公開されたことがあった。そこで働く知人に理由をきくと、「東京のミニシアターで映画を観る人数より、ツールのファンの方がパイが大きい」と答えた。なるほど、劇映画に比べて、ドキュメンタリーの動員には社会のファン層と直結しているところがある。伝説的な米国のフィギュアスケーターを描いた本作には、同性愛やエイズの問題も絡んでいて、熱心な観客が押し寄せる状景が目に浮かぶ。
アスガー・ファルハディは国際的に評価の高い監督だが、「彼女が消えた浜辺」でも「別離」でも、ウェルメイド作品をつくれる職人だと感心していた。練りこまれた脚本で、フレームにきっちりと俳優の演技をおさめて、観客の感情を手玉にとるようにコントロールする演出と物語展開。イラン社会の特殊性に根ざすテーマ性とドラマツルギーなのかと思っていたが、スペインに舞台を移しても高品質のドラマは変わらない。男性俳優陣のヒゲの濃さにだけ、イランらしさが残っているかも。
恋した相手が車椅子で生活する女性なので、自分も障害者と嘘をついてしまうとは、ジョスランは実に不心得な男ではある。けれど脚本・監督・主演が人気コメディアンだけあって、嘘の見せ方に取り繕い方、ばらし方がうまくテンポも軽快。最後はユーモラスな感動に持っていくのはさすが。車椅子女性フロランスの、仕事に趣味に積極的で、車椅子でヒールの靴を履くなど、おしゃれもためらわない生き方が素敵。二人の周辺人物のキャラも面白く、見終わって幸せになる大人のラブ&コメディ。
「奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ」と今作しか見てないが、監督・脚本のM‐C・M =シャールは、日常、あるいはそのすぐ近くに題材を見つけ、群像劇にするのが得意と推察する。パリの生きのいい女性たちをひと皮めくり、子を持つ人にも持たない人にも自分が命を授かった母親の存在を通して、個々人の幸せを見つけさせるのだから。母になった女性大統領は言う。「4年後国民は母親を選ぶでしょう」と。女性が母親業と仕事のどちらかの選択を迫られなくて済むようにとのメッセージに共感。
フィギュアスケートを見ていて思う。スポーツ競技だろうかと。ジョン・カリーがこの映画で一つの答えを与えてくれた。スケートの技を高める努力にも増して、バレエのメソッドを取り入れて音楽を表現することに注力する彼は、フィギアスケートが芸術であることを認識させる。華麗な滑りの数々に加えて、セクシュアリティの苦悩、HIVとの闘いも語られ、全篇のドラマチックな編集◎。ラストの「美しく青きドナウ」の振り付けと演技に横溢するカリーの思いに胸が熱くなる。
主題は誘拐事件だが描かれているのは家族問題。というわけで事件と問題はどこで結びつくのだろう――ファルハディ監督の前作「セールスマン」もそうだった――と思いながら見られること、見終わってじわじわくることとがこの監督の特徴的作風だ。事件を解明する過程で浮き彫りになる家族関係や誘拐された娘の母ラウラと幼馴染パコの過去。演じているのが実の夫婦なので何らかのオチがあると思っていたら、やはり。そして娯楽性が前面に。これはこれで面白いが、よき特徴が少し薄い。
嘘つき男のジョスランを演じたフランクが本作の監督でもあると知って納得しかない。それぐらい、彼の見せ場には事欠かない。コントみたいな茶番を悪びれもしないようにやってのけるのはなかなかの強心臓ぶりだ。だがヒロインのキャラクターと演じたアレクサンドラ・ラミーの実力でこれが成立してしまう。彼女だけでなくこの映画では意外にも女性たちの心のひだがさらりと演出されている。それだけに、終盤は男気があるんだかないんだかわからないジョスランがやや迷走気味に見える。
「家族」というより「母親」たちの群像劇。日本よりは女性が子供を生んでも生きやすいとされているフランスでも、母親になる選択と向き合う個人的・社会的試練は同じ。登場人物の多さはそのまま生き方や選択肢の多様性を意味し、ややサンプルケースのカタログっぽく見えなくもないが、カタログを作ること自体には意味がある。女性賛歌は何の解決にもならない。子供を持つことがリスクよりも可能性でありますように、またそれと同じぐらい子供を持たない意志や権利も尊重されますように。
フィギュアスケートがスポーツか芸術かは極めてグレーな命題で、身体能力やテクニックだけでなく表現力をも求められる。だがそれこそがスポーツとしてのこの競技の正当な評価を妨げてきたことも確かだ。肉体的な苦しみを絶対に表に出さないのが芸術であり、これがバレエ出身であるカリーの哲学の根底にあるのは間違いない。演技のどの瞬間を切り取っても完璧な美の追求と、ジャンプの着氷にすべてを左右されるスリル。どちらか一方だけでは満足できない我々の強欲をまずは認めよう。
ペネロペとハビエルが夫婦共演。しかも脚本はアテ書き。と言っても夫婦役ではない、というのが騙されたような。血縁や身近な関係が顔を揃えたときにその闇が暴かれるドラマ自体は目新しいものではないが、映画の枠組みを超えた先述の事実が思いのほかトリッキーで混乱を招く。通常役と役者本人の人生は必ずしも一致しないが、本作においては二人が実生活で夫婦であることをふまえて観ると説得力が生々しい。それをねらったであろう監督のファルハディは相変わらず計算高く意地が悪い。