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車庫のシーンで色や型もさまざまな嵐電が、横並びに写るカットがある。乗り鉄でも撮り鉄でもないが、かなりワクワクした。それにしても愛すべき小品である。いや、愛すべきスケッチ映画というべきか。三組の人物たちは、さしずめ、過去、現在、そして未来を担っているのだろうが、深入りせずにスケッチにとどめているのが行き来する嵐電の映像と巧みに呼応し、すれ違ったり、追っかけたり。ただ観ているときは全く気にならなかったが、役名が妙に凝っているワケは!?
むろん、顔が眼目の映画ではないのだが、山本作兵衛が描く炭鉱労働者の顔は、男はみな高倉健似で、女は母親も娘も山田五十鈴系。目はどちらも黒々と力強い。今回、熊谷監督は、先行のドキュ「坑道の記憶~炭坑絵師・山本作兵衛~」を一歩踏み込んだ形で、山田五十鈴似に描かれていたヤマの女たちの実態を検証し、現代へとつなげる。そういえば三池炭鉱の顚末を記録した「三池 終わらない炭鉱の物語」も、メインにいたのは妻たちだった。多彩な証言者たちのことばも貴重な力作だ。
「月光の囁き」「害虫」など、塩田監督の初期作品には、ヒリヒリするような甘美な痛みがあり、クセになるほど面白かったものだが、今回はその痛みに寛容さと共存が加わって、その変化が小気味いい。音楽で結ばれた娘同士とマネージャーの若者。決してナマ臭い関係にはならない故に、思いのすれ違いが不協和音を招き……。孤独と沈黙の行動がステージ上の演奏をリアルにして、歌も自然体。ロードムービー仕立てなのも浮遊感となっている。2人の女優が素晴らしく、成田凌もいい。
要するに、同じ人物が動き回る二つの世界の、どっちがインチキでしょうという夢オチ系のミステリーで、ラブストーリーが絡んでいるのがミソだが、どうも身を乗り出したくなるほどの設定でも人物たちでもなく、全て映画にお任せしてただ観ている始末。二つの世界を行き来する主人公の、その原因の一つが、親友の恋人を横取りした罪悪感だとしても、その恋人にしろ親友にしろ、主人公側からしか描いていないので果たして彼らが存在するのかどうか。“真実”とやらもムダ足気分。
映画は歯車やローラーの回転が帯状のフィルムを送りつつ映像を捉えて撮影され、また映写用のフィルムを同様の機構を持つ映写機で映写するシステムであった。映画においてしばしば列車が魅力的な被写体となったのはそれが動くものである以上に車輪と線路という回転と帯状のもののシステムだからだ。その人智を超えた、いわば物の怪同士の響きあいを鈴木卓爾は市電と8ミリフィルムによって拾い出す。それに導かれ異次元に入る人物たちの美しい動揺とよろこび。つまりそれが映画だ。
本作監督の過去作「三池 終わらない炭鉱の物語」と繋がるのはもちろんだが、山本作兵衛という特異な画家を紹介することがその画の色鮮やかな物語性を伴って、観る者に強く訴えかける。その“物語”において重要な真実はルポやドキュメンタリー以上に伝わってきた。私は本作が見せる作兵衛氏の炭鉱労働画によって、身体や生命に危険のある過酷な労働とは、労働者各人の自己保存の本能に労働の質を抱き合わせる究極かつ最低の自己責任論だと気づかされた。この問題は現在にも続く。
常套が意識もさせぬうちに避けられるときその映画は美しい反語となる。女ひとり男ふたりの三角関係は映画で多く観られるがそれよりもはるかにフラジャイルな女ふたり男ひとりのトリオが旅をする。ロードムービーの移動の感覚が誘う解放感や楽天性は、それが解散ツアーであるという宣言と、画面に移動感を出さないことによって封じられる。三人の自閉と拒絶は逆のものへの渇望を示す。そして観るうちに観客が醸成する想いのとおり、題名にもあるさよならの語は心地よく裏切られる。
この欄をやってきた通算七年分の自分の方法の不徹底さのひとつをここで急に反省する。小説や漫画の原作がある映画について(それってほとんどの映画だが)可能ならば映画を観た後この短評を書くまでに原作を読むことをなるべく心がけたがそれは出来たり出来なかったり。それは良くないブレであった。今回は読めてない。だが今まで主にこの欄のために読んだ何冊もの東野圭吾小説はどれも面白かった。本作にもその感じがある。染谷将太氏はこういう役柄もアリ、ということは発見。
嵐電は帷子ノ辻駅で本線と北野線に分かれる。まるで人生の“わかれ路”のように異なる場所へ誘われることは、映画の中で度々仄めかされる「あったかも知れないもうひとつの人生」を想起させる。そもそも映画の歴史は「列車の到着」に始まり「大列車強盗」で筋立てが生まれたように、鉄道と親和性がある。日本映画の草創期、嵐電沿線に撮影所が集中したこと、また本作が「映画についての映画」であることはもはや偶然ではない。本来は映像に記録されることのない土地の念がここにある。
葬送の翌夏、母の郷では各戸で“盆踊り”の会場を設けるという慣わしがあった。夏の夜になると僕が〈炭坑節〉を思い出すのはそのためだ。幼少期から耳にしていたからか、〈炭坑節〉が延々と流れることに違和感を覚えることはなかったのだが、筑豊を舞台にした本作を観て、僕はその理由を初めて悟ったのである。親族に対する単なる鎮魂ではないということ。炭鉱で命を失った人たちの労働の上に我々の生活があるということ。「炭鉱は日本の縮図」という作兵衛の言葉が重くのしかかる。
門脇麦と小松菜奈は車窓の外を見ている。スクリーン上で、門脇は上手、小松は下手、そして運転する成田凌は下手を向いている。三人が“同じ方向を向いていない”のは、座席位置から考えれば当然のことなのだが、物語が進んでゆく中で座るポジションは変化している。どうやら三人の関係性や感情の変化を、各々の顔の向きによって視覚化しようと試みているのだ。いつしかフロントガラス側にカメラを向けることで、三人は正面を向いている。つまり彼らは“同じ方向を向いている”のだ。
小説における叙述トリックを映像化することは難しい。文字上では想像に委ねることや意図的に隠されたことが、視覚化されることで明確にしなければならなくなるからだ。本作は、原作でミスリードさせられた“からくり”を、映像でも果敢に実践しようと試みている。タイトルに“パラレル”とあることで、既にミスリードされているのだが、フィルムとデジタルのカメラを使い分け、映像の粒状性に違いを持たせ、スタッフを2班に分けるなどして“ふたつの世界”を具現化させているのだ。