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広大な原野での戦闘シーンや王宮セットなど、中国での大掛かりなロケが物語のスケール感になっていて、各キャラクターの衣裳やメイクも凝っている。馬やエキストラの数にも感心する。ただどうしても戦闘絵巻ふうの物語にこちらの気持ちが乗っていかず、観るというより人物やそのアクションをただ“眺めている”気分。だからかつい山𥔎賢人がキャンキャンうるさいとか、長澤まさみの腕の肉付きに目が行ったりと、どうでもいいことばかりが気になって。大沢たかおの色気と貫祿は出色。
恥ずかしながら、お笑い芸人・松元ヒロの「憲法くん」をこの作品で初めて知った。ベテランの女優たちによる原爆の朗読劇公演も今回が初めて。どちらもことば、つまり肉声によるダイレクトな憲法擁護、戦争反対のメッセージが込められていて、観ているときは心に強く響く。でもことばは次のことばに流される傾向がある。ことばから生まれたイメージは次のことばに流され、ことばばかりが押し合い、圧し合い。それとやはり松元ヒロ本人に「憲法くん」を語ってほしかった。
夫婦と子ども7人の一家を20年以上も取材した記録といえば「五島のトラさん」が思い出される。うどん業のトラさんの子どもたちも幼い頃から家業を手伝っていた。が岩手の山中で酪農を営むこの一家の子どもたち7人は、両親と同等の働き手として大自然と格闘する。プレハブにランプ生活の厳しい暮らしからスタートした取材は、成長した子どもたちの離反、独立まで記録、どの子どもの生き方も応援せずにはいられない。頑固な父親の無念の涙も。地元ローカル局の丹念な取材に脱帽。
常に人々の仕事や地域の文化・習慣をしっかり盛り込んで身の丈のドラマを語っていく錦織作品に、日本映画の良き伝統を感じているのだが、今回はチト戸惑う。隠岐の伝統相撲を題材にした「渾身KON-SHIN」と同じ隠岐島を舞台に、タイムリーな話題の“島留学”と“島親”の話を絡ませて、記憶喪失のままの漁師の日々が描かれていくのだが、えーっ記憶喪失!? 思うにTAKAHIROの演技をアピールするための設定なのだろうが、風景も人情も自然で美しいだけに違和感が残る。
こちとら四十代の男によくある横山光輝『三国志』世代。本宮ひろ志の『天地を喰らう』、ついでに『赤龍王』(項羽と劉邦もの)も通過。漫画にはまらぬ者も中学頃にゲームにはまった。「レッドクリフ」を封切りで観た際、冒頭に東宝東和がつけた? 背景解説に対して客席に満ちた、今さらそんなものいらん!の空気よ。非文芸系中国歴史愛好民よ。そこから十年、春秋戦国時代を題材に、かつて本国に召し上げられた「墨攻」に負けぬ国産の中国歴史もの。よくぞやってくれたと感無量。
私自身は護憲派。カジュアルに。本作主旨に賛同。ナチュラルに。大東亜戦争と称した戦争での敗北がどれだけ日本にとってデカかったか。それを体験したひとたちの皮膚感覚を通してそのことを追体験することが旧作日本映画を観ることには含まれる。それを長年積み重ねてきたためにいまの日本国憲法に価値を認めてきた。渡辺美佐子はじめ本作に登場する方々の活動を風化に抗う闘いだと思った。日色ともゑが語る宇野重吉の判断基準“そこに正義があるかどうか”、には感銘を受けた。
本作を観て、かつてこの欄で紹介した長崎五島列島の大家族を二十二年間追ったテレビ長崎のドキュメンタリー「五島のトラさん」を連想。長期取材と素材の圧縮還元提示というテレビ→映画ドキュ。本作の吉塚公雄氏は理想の酪農を実現させた物心ふたつの意味での開拓者。家族を労働力としてしまった面もあるがその是非はジャッジできない。彼は子どもに人並みの娯楽を与えてやれぬと泣くが、そのようなこともなんとかやってみながら、それは本質的な子育てでもないと実感する私には。
映画が始まってある登場人物が出てきたとき、まずその人物の内面や来歴はわからないものだが、観ていてだんだん彼が記憶喪失であるとわかってきたとき、観客もいわばその映画の世界や人物たちに対して記憶や情報を有しない者として居たわけだから、客席とスクリーンのなかの覚束ない者同士が同族のように感じられる、ふと目を合わせるようなことも起こりうる。TAKAHIROにはそうも思わせるようなナイーブな佇まいがあった。そして私は「たたら侍」のことを忘れられた。
瞬きを抑制することで高貴さを表現する吉沢亮のアプローチ。無表情ながらも姿勢や所作に対する細やかな配慮によって出立ちを構築し、荘厳さを感じさせる独特のオーラを己に纏わせている。漫画原作の映画化には再現性が求められがちだが、漫画の特性でもある“明確なビジョン”を超越したキャラクターを吉沢は実践してみせている。坂口拓の傍若無人ぶり、大沢たかおの物の怪ぶりなど、脇のキャラクターにも抜かりが無い。が、一年に一本製作しても完結に十年以上を要する憂慮はある。
憲法を擬人化した「憲法くん」(18)。ドキュメンタリーを添えることで、短篇を長篇にするアイディアは、興行のありかたにも一石を投じている。「確かに、私にはアメリカの血が流れています」あるいは「私がリストラされるかも?」という台詞は、ユーモアをもって世相を斬ってみせているだけでなく、反対意見に対する牽制をも実践している点が秀逸。時が過ぎ、記憶が薄れ、年号も替わり、忘れ去られてしまうことへの危惧。いつしかこのユーモアさえも通じなくなることへ不安を覚える。
石川啄木は「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざり」と詠んだが、人生や暮らしは、利潤や効率だけではないのではないか? と思わせ、我が手をぢっと見るに至る。厳しい自然に不便な生活、そして資金難。なぜ人は“そこ”で暮らす必要があるのか? と疑問を抱かせながら、それでも“そこ”で生活する意味をこの映画は提示する。そして、働くことの意味を考え、大企業の論理のみに寄り添った“働き方改革”など、くそくらえ! とも思わせるのだ。悔し涙の数だけ、人は強くなる。
都会と地方における家族のあり方を対比すべく、ここでは島側の視点に寄り添うことで問題点を炙り出そうと試ている。海岸線沿いをランニングする主人公の“不安”を暗示するように、道は右に曲がりくねり、先が見えない。人生の先にあることは判らないといわんばかりだ。また〈記憶〉の正体を観客が悟る直前、そこで“困難”が待ち受けていることを暗示するように、松坂慶子が急な坂道を登ってゆく。本作は様々な暗喩を用い、観客の固定観念をも利用しながら予想外の終盤を提示する。