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ズケズケしたもの言いの女たち。いいかげんでその場しのぎの男たち。16ミリフィルムで描かれる釜ヶ崎はどこかロマンポルノの、それも神代辰巳作品から抜け出してきたような男女が賑やかに押すな押すなをしていて、そのとりとめの無さが妙に懐かしい。盗まれた“お釜の盃”騒動と、再開発による立ち退き騒ぎの二つが絡まって、天下分け目の、オットット!? 雑多な人物の登場も釜ヶ崎カラーとして小気味良く、一匹狼ふうのヒロイン(太田直里)が墓地で歌い踊るシーンも心憎い。
俗言に、“美人は三日で飽きる。ブスは三日で慣れる”というのがある。この映画でお笑いのよしこが演じている主人公は“三日で慣れる”系だが、美人の頭文字もブスと同じB。いずれにしろ、B級ラブコメディとして人畜無害の作品ではある。“絶世のブス”以下、ブスの連発も陰湿さが皆無なのでただの記号ふうで、いや、それでもセクハラ絡みのことばであることは事実なのだが、主人公のキャラに自然体の愛嬌と誠実さがあり、よしこ、役者としても上々。ブス好き上司の方が差別的!?
文字通り、命を背負って競技をする選手たち。医者に止められてもコートに出たい。不自由な体をものともせず、日本代表を目指すその姿は、観ているこちらまで奮い立たせるような人間力がある。その一方、きれいごとだけではない生臭いエピソードや、治療、手術のシーンまでカメラを向け、取材される選手たちも決して自分を隠さない。出番の多い永岡真理さんの言動も魅力的。と同時に選手たちをサポートする人たちの存在も印象的で、中でもゆるい試合を許さない監督の厳しい指導。
「Bの戦場」とは真逆の、つまり美人系という設定の主人公の婚活ものだが、こんなに箸にも棒にも引っかからない退屈な女も珍しい。劇中、彼女に向けてウンザリするほど、美人、美しい、ということばが発せられるが、美の基準は人それぞれとは言え、どこが美人? しかもただの男荒しとしか思えない婚活サイトの相手探し。出会う男たちも彼女に媚び、へつらい――。コメディのつもりらしいが、こう軽薄では気色がワルいだけ。彼女の過去のエピソードも“存在の耐えられない軽さ”。
ジョン・ウー「マンハント」の倉田保昭登場場面(釜ヶ崎)は本作の露払いだった。ひとが息をつける場所を見つけて知らせるもしくはつくりだすのが映画の役割であり本作はそれを為した。「夕陽のギャングたち」でロッド・スタイガーの銀行破りが気づかぬうちに思想犯の解放になり、盗っ人の彼が革命の英雄に祭り上げられてしまうのにも似た本作の川瀬陽太の押し出され場面は運動がこれぐらいいいかげんで野放図でいいという、監督佐藤零郎の確信と実感だろう。その愉快さ、美しさ。
面白い。本作の作り手が美人不美人の別はないとか、やっぱり心の美しさこそ大事、みたいな話で満足ではないことは、ヒロインが男に“私はブス好きだからあなたが好き”と言われて猛烈に反発するとか、彼女の個性を優しさ推しよりも立派に仕事をすること推しにするあたりにうかがえる。ガンバレルーヤよしこが完全に主役の器で走りきった。宣伝は絶対「美人が婚活~」と協働すべき。男が手前の汚いツラを棚にあげて女性の美醜を評し、それを彼女らの枷にしてきたことを問えばいい。
自分は高校の頃には血尿が出るくらい走りこんだゆえに昨今のチャラついたキラキラ映画における骨細野郎がスポーツもこなせるという描写で実際にイケメン俳優が基本的な動き(腰を高くあるいは低く走る、脇をしめるなど)をこなすこともできない場合激怒するが、本作に登場する電動車椅子サッカー選手についてはどうか。そんな視点を凌駕してヤバく、彼らを尊敬した。競技で死んでもいいと思ったことあるが彼らのほうがよほどそこに接近してる。彼らもまた人類代表のアスリートだ。
映画におけるセックスをオンにするかオフにするか問題。オフとはその要素が存在してませんみたいなままでやりきることでオンは逆。本作は後半でガツッとオンになる。婚活やってる変人男の博覧会に始まりちょっとマトモ勢に的が絞れてきてからの恋愛映画風の感じをそこで絶ち、切実な女性映画になった。過去の男のフラッシュバックや、熱くさせないのに万事スムーズなので寝ることになる男や、生の損耗はもはや男のせいでもないという境地などなかなかリアル。意外かつ正しい重み。
本当は存在するはずなのに“見ないフリ”や“無かったフリ”をすることで、街並の近代化を是と押し進める〈日本社会〉という名の盾。再開発をめぐる騒動は外部の都合によって生まれ、そこに居住する人々の都合は加味されないという現実。フィルム撮影による質感は、フィクションでありながらも舞台となった釜ヶ崎の“どこか淀んだ感じ”という生々しさを映像によって伝えることへ適している。関西出身者ではない川瀬陽太と渋川清彦に違和感がなく、街並にほぼ同化している点も一興。
挑発的なタイトルに騙されてはならない。どんなに辛いことがあっても常にポジティブな主人公の姿は、〈人は外見によらない〉という別の意味でのステレオタイプを導きながら、人に対する優しさや仕事に対する情熱を至極真っ当に説いてゆくからだ。芸人・よしこの表層的イメージを踏襲させることで、逆説的な〈美〉を感じさせるのは、演じるウェディングプランナーの内面を丁寧に積み重ねて描いている故。「どうせ吉本の映画案件でしょう?」というステレオタイプな揶揄は必要ない。
“蹴る”という文字には“足”が含まれているが、取材対象となる人々は足が不自由であることから“蹴る”という行為が何であるかを、まず考えさせられる。さらに不自由な度合いが人それぞれであることから、そのことが“個性”なのだと気付かされるのだ。そして一転、スポーツの場においては、その“個性”が力の差になってしまうという厳しい現実を悟るに至る。本当の闘いは本作の後に続く人生の先にあり、ドキュメンタリーは取材対象者の人生までは引き受けられない悔しさがある。
大九明子監督作品のヒロインたちは、画面の奥からやって来る。彼女たちが画面の前方に到達するまで、観客は彼女たちの姿を凝視する。つまり、イニシアティブは彼女たちの側にあるのだ。その姿はまるで「さあこれから、貴方がたのいる世界の方へ近づいてみようかしら」と言わんばかりなのだ。本作では、寿司に箸を使うのか指を使うのかの違いを刷り込ませることで、終盤に訪れるヒロインの心境を裏付けようと試みている。そして決断を下す彼女もまた画面の奥からやって来るのである。