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18世紀初頭のイングランドの宮廷を粉飾なしに映画化したら、現代人の目から見て当然グロテスクなものになるわけで、ましてや監督がランティモスであれば、人物の感情を拡大してそっち方向に振るのは観る前から明らか。実際、意図の染み渡った美術設計、広角レンズで空間の歪みを強調しつつのクイックパン、過剰で複雑なオーバーラップ等が、独自の世界を匂い立たせる。だが真に驚くべきは、展開の速さと人物の運動により、作家性の強いこの作品が、娯楽映画としても成立していること。
この題材ならラジオドラマでもいいのではと言われそうだが、映像ならではの工夫あり。目を引くのは、ほぼ主人公にしかピントが合っていない極端な焦点距離の浅さ。一瞬ディープフォーカスになったと思ったら、主人公がブラインドを下ろして後景を遮ってしまう。不用意な行動を自分ひとりの判断で取ってしまう彼の閉鎖性とこれは呼応していて、彼に自己開放の瞬間が訪れるのかどうかを、事件の推移ともども観客は追うこととなる。べらぼうに面白いが、この図式性が弱点と言えるかも。
黒人男性でクリスチャンであると同時に異性装者でゲイであることの苦しさを、該当しない人間(たとえばわたし)が理解できると考えるのはきっと傲慢なことだ。でも、家出中に主人公が経験する孤独と屈辱の描写には、観る者を切実に揺さぶる普遍性がある。残念なのは、ローズおばさんひとりに悪役を背負わせてしまったせいで、主人公の苦しみの原因が大したことなく見えてしまうこと。キメキメに見せるのではない、ちょっとアマチュアっぽいミュージカルシーンに、独特の味わいあり。
日本の漫画やアニメで見るような「デカ目」が、チコちゃん方式(たぶん)で実現。でもチコちゃんより表情が乏しく思えるのは、サイボーグだからで済ませてしまっていいのかな。語りの視点をいちいち移動させ、事態をあらゆる面から説明しているのが、この映画の場合あだをなしているようで、上映時間が異様に長く感じる。エピソードを削るか、視点を絞るかしたほうがよかったのでは。「アクアマン」のW・デフォーに続き、クリストフ・ヴァルツの演じるおじさんがとてもチャーミング。
物語を左右するスチュアート朝の最後の君主、アン女王をオリヴィア・コールマンがすさまじい迫力で演じる。権力の頂点に立ちながら、痛風に悩む虚弱体質で、好き嫌いが激しい。内外ともに大変な時代なのに、政治に無知で自己中心主義。そこに、レディ・サラ(レイチェル・ワイズ演でチャーチルの祖先)とアビゲイル(エマ・ストーン演)というやり手の女官が登場し、3人の関係が宮廷絵巻の中で酷薄に描かれる。オーストラリアの脚本家とギリシャの監督だからこそできた物語と演出かも。
緊急通報指令室のオペレーター、ヤコブ・セーダーグレンがかかってきた電話の相手の声とその周辺の音声を聴くことに神経を集中して事件に立ち向かうワンシチュエーションドラマ。ルメットの「十二人の怒れる男」のように多彩な演技陣の競演があるわけではなく、彼ひとりで、ときには苛立ちをみせながら、狭い空間のなかでひたすら見えない敵と戦う。デンマークの国立映画学校の卒業生たちが議論しながら仕上げたストイックで実験的な映画である。創意工夫で予算のある大作に匹敵。
ブロンクスに暮らす黒人の少年ユリシーズ(ルカ・カイン)は軍人の父の死をきっかけに女装をするようになる。監督自身、トランスジェンダーで、調査は万全であるとのこと。母の留守中、手伝いにきたオバさんはカインがハイヒールをはいている光景を見て、「黒人でゲイじゃ、将来、仕事にもつけないよ」とののしる。学校仲間にも「オカマ野郎!」とからかわれ、孤立無援。サタデーナイト・チャーチでLGBT仲間が歌い、踊り、語り合う場面が出てくるまで、カインを見ているのが辛い。
木城ゆきとの原作をジェームズ・キャメロンが製作・脚本したということで大いに期待。サイバー医師のクリストフ・ヴァルツ(好演)が、クズ鉄町アイアン・シティのゴミ捨て場からサイボーグ少女アリータの首を拾い、治療のために持ち帰ったときは、ローサ・サラザールの人形みたいに大きな目を見ながら、この先どうなることかと心配したけれど、奇怪なサイボーグたちを相手にした彼女のアクションが始まると、たちまち感情移入。舞台美術が実にいいので、都市ザレムのディテールも見たい。
たとえ広大な宮廷が舞台であろうとも、いいようのない閉塞感と不穏なユーモアを醸すのはヨルゴス・ランティモスならでは。撮影のスタイルや構図、章立てを用いた語り口は「バリー・リンドン」を意識しまくっているが、これがまた彼の持ち味とマッチしていて悪くない。百合炸裂のシーソー・ゲームに固唾を飲む一方で、歴史もなにもかも動かすのは女だと痛感。エルトン・ジョンの『スカイライン・ピジョン』が流れるが、歌詞もチェンバロの調べも内容にドンピシャでお見事!
音とセリフだけで構成されていると言い切っていいのだが、それでも携帯電話、スマホ、無線の向こう側の情景が観る者の頭にしっかりと浮かび上がってくるのはたいしたもの。というわけで慌てふためく者たちの会話に聞き入ってしまうわけだが、それゆえにうっかりして事件を俯瞰的に見ることができずにクライマックスでは主人公と一緒に驚いてしまう。感覚を研ぎ澄まさせながらも、その一方で鈍ってしまう部分も出てくる仕掛け。撮影も凝っており、目をおざなりにしていないのも◎。
トラヴォルタのディスコ映画やエルトン・ジョンの名曲のせいもあってか、〝サタデー・ナイト〟というと弾けたイメージ。ミュージカルでもあるので、そうしたノリかと構えたが極めて真摯な姿勢の作品であった。原題をよく見たら〝ナイト〟が抜けているので仕方ないとは思ったものの、人種的にも性の面でもマイノリティであることの辛さをガツンと描いてはおらず、主人公が自身を解き放つ場となるヴォーグ・ナイトをクライマックスとしてしっかり据えていなかったりと、なにかと甘い。
ピグマリオンコンプレックスを喚起させるようでさせない、ギリギリの妖しさを放つアリータの造形が素晴らしい。ボーイ・ミーツ・ガールとビルドゥングスロマンの王道をゆく内容で、彼女がこれまた天真爛漫なものだからその行方に一喜一憂してしまう。人間ではなくてサイボーグならおとがめなしだろうと、人体破損ならぬ機体破損がいちいちエグいのも素晴らしい。ただ、舞台となるアイアンシティが意外と楽しそうな街として描かれており、物語の核にもなる天空都市の存在が希薄に。