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終戦直前、ひとりの脱走兵が軍服を手に入れたことから、ナチスの将校になりすます。この作品を見ながら、映画の登場人物に対する観客の共感能力について考えていた。主人公が画面の中心におかれ、彼の物語が展開するなかで、脱走兵を取り締まる憲兵に出くわしたり、彼の素性がバレそうになったりする度に、あろうことか、わたしは唾棄すべき主人公にその場の窮地をのがれてほしいと祈っていたのである。このことは、権威を笠に着て虐殺にまで走る主人公以上に危険なことではないか。
現実社会では年老いて頑なになったお年寄りを敬遠しがちだが、気づいたら自分が頑固じいさんになっているのではないかと不安で仕方がない。本作のロレンツォという登場人物も、弁護士という仕事や浮気のせいで、娘や息子から見放されている孤独な老人。そんな彼が、隣に引っ越してきた若い家族と親交を深めて、家族の代理を見つけていく。映画のテーマって家族ばかりだなと思っていたところへ、かなり唐突にある事件が起きる……。紋切り型から逸脱していく後半の展開はショッキング。
今年一番の衝撃作の登場。戦争で300万人の命が失われた日本では、誰もが戦後に被害者の顔をしてきた。だが戦前の大日本帝国は、アジアへの植民地侵略で2000万以上のアジア人を殺害したといわれる。本作で関東大震災のときの朝鮮人虐殺を訴え、あえて皇太子殺害計画を自白した朴烈や金子文子のいうように、侵略された側からすれば巨悪は日本政府と軍部であり、民族独立のために彼らが戴く王=天皇や皇太子の殺害を願うのは当然なこと。虚をつかれたが、再考に値する主題である。
マルグリット・デュラスの原作を映画化すると、どうしてこの人のカラーで染まるのか。占領下でレジスタンスをしていた女が、逮捕された夫の情報を聞きだすため、ゲシュタポの手先の男と逢瀬を重ねる物語が何ともデュラス的。それ以上に、主人公のマルグリットをフレーム内におさめつつ、彼女の意識の流れのようなモノローグを重ねる映像と音声の構造がまたデュラス的。「雨のしのび逢い」や「愛人 ラマン」、リティ・パンが撮った「太平洋の防波堤」を見直して本作と比較してみたい。
権力と無縁の人間が権力の味を知ったらどうなるか。脱走兵ヘロルトを見れば一目瞭然。彼の[なりすまし]は救い難い反面、映画を面白くもする。この男の正体に気づかず、疑いもしない警備隊長、処刑に反対するも残虐行為を阻止できない収容所長。いずれも権力の前に無力。挙句、権力の快楽の行き着く先を遊興としていることで、猛毒入りの人間喜劇にも見える。1945年のドイツの実話が現代に重なり、監督の言葉「彼らは私たちだ。私たちは彼らだ」が痛い。いつの時代も人間というものは……。
妻に先立たれ、子どもともうまくいかない独居老人が、隣人に恵まれて幸せを取り戻す話かと思いきや、そう単純ではなかった。確かに隣人とは表面的にいい関係になるが、実はこの一家の問題は何も知らなかった。いや、描かない。そういえば、主人公と娘も溝を埋める言葉は互いに交わさない。なぜ? 隣家の事件をきっかけにドラマが引き締まり、終盤で詩を引用した娘の「幸せは目指す場所ではなく帰る家だ」で理由が判明。言葉でも血縁関係でもない、寄り添う愛が満ちて、話は深い。
映画に描かれる隠蔽のメカニズム。いまだから、主題の主人公ふたりの愛と闘いとは別の、恐怖心が立ちのぼってくる。公文書改ざん・隠蔽に統計不正。民主主義を脅かすこれらの不都合な出来事と、映画のエピソードが重なる。加えて今日の日韓の間には新たな難題も。過去の出来事が現代をも照らし出す場合は少なくないが、この映画は1923年当時の日本と韓国の関係を、宗主国と植民地といった典型的な対立構造で描いてない。その狙いやよし。いま(だから)インパクトが増す映画である。
ゲシュタポに突然連れ去られた夫の安否を気遣いながら帰りを待つ女性。映画と縁浅からぬM・デュラス原作に加え、夫の不在というシチュエイションの共通点で、彼女が脚本を書いた「かくも長き不在」を思い出してしまった。原作者とヒロインとの距離の近さを物語るかのように、待つ苦悩はもちろん、(愛人を)愛する苦悩に(夫を)愛せなくなってしまっている苦悩を、陰影を持って絡み合わせた演出が優雅。欲望に正直で奔放な女性をエレガントさを損なわずに演じたティエリー◯。
第二次大戦末期、秩序の失われた世界で増長していく負の連鎖。たった一人のニセ者将校の誕生は「まぼろしの市街戦」や「小人の饗宴」を思わせるような倒錯した狂乱をエスカレートさせていく。彼もまた戦争の被害者だ、というのはあまりにも安直で、被害者と加害者は常に表裏一体だ。モノクロの陰影の効いた映像が写し出す深夜の集団射殺シーンは恐怖と虚無の極み。「フライトプラン」「RED/レッド」などでアクションとサスペンスの実績を持つロベルト・シュヴェンケ監督の真骨頂。
視点を現在に絞ったストーリーテリングにより、登場人物の過去は最低限の描写におさめられ、セリフの断片などに垣間見られる程度。これがサスペンス的な効果よりも思わせぶりな印象を強める。こじれた実の家族より素性の曖昧な隣人に介入していく老人の心理も、わからないわけではないし十分あり得ることなのだろうが、物語の中で説得力を与えるには不親切と言わざるを得ない。結果として、それぞれが身勝手に動いた結果、都合よく解釈して丸く収まる。それもまた真理なのかも。
金子文子を演じたチェ・ヒソがとにかく魅力的。幼少期に日本に住んでいた経験もあり、日本語のレベルも桁違いだ。それに負けず劣らずの健闘を見せたイ・ジェフンも除隊後の出演作では久しぶりに生き生きとして見える。事実関係をふまえた上で公正な温度を保った人物造形と作劇。日韓関係が絡むだけに敏感になりがちなテーマだが、テレビと映画のいいところを取ったような作風で、ルックはリアルよりも朝ドラや大河ドラマのような清潔さを保っているので、作品として見やすいのでは。
結論から言うと、この小説の映画化はやはり困難だった。待ち続ける女の心理描写を正攻法で撮ろうとすれば映像表現はどうしても抽象的にならざるを得ない。特に後半、ゲシュタポの手先であるラビエとの接触が絶えてからはその色が濃くなり、彼が本作の生命線だったと言ってもいい。そのラビエを演じたブノワ・マジメル、いつの間にやらすっかり恰幅がよくなり……時の流れを感じるとともに、別人になったかのような容貌の変化を遂げても、役を魅力的に見せる俳優としての力量に脱帽。