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マルタン・マルジェラが表舞台から姿を消して10年。共にブランドを立ち上げたジェニー・メイレンスの協力を得て、ファッション界のトマス・ピンチョンか? などと囁かれた彼の素顔に迫る。タグ代わりの端布をはじめ、白が象徴する世界を守ってきた初期スタッフたちの言葉は情熱的だ。「自分の気持ちを胸に秘めてる感じよ」「謎にはふれないでおくべき」……マルタンについて恋する乙女の如く話す姿から、彼が愛されていたと知る。愛が饒舌な分、チーム空中分解の謎=沈黙は深い。
主人公ジョンの変貌ぶりが見事だ。冴えない高校生がノーザン・ソウルに出会い、ママが選んだ服を脱ぎ捨て、シューズから(オシャレは足もとから!)ヘアスタイルまで自分らしく変身! 仲間や夢を手に入れて青春の光を思いきり浴びた後は、孤独な影(やはりドラッグ絡み)も知り、ちょっぴり大人になる……王道の青春ストーリーで、鮮やかに変わっていくジョンの顔つきがドラマチック! 本作で映画主演デビューを飾ったエリオット・ジェームズ・ラングリッジ、覚えておきたい俳優だ。
イランの巨匠、アミール・ナデリ監督ここに在り、の堂々たる痛快作だ。そびえ立つ岩山につるはしで立ち向かう、貧しき父アゴスティーノと息子ジョヴァンニ。神や自然、人間からも見棄てられた、孤独な身ひとつで限界突破に挑む、狂気に駆られた二人を、静かに見守る母ニーナ。『火の鳥』を彷彿とさせる壮大なシーンが、圧倒的なスケールで描かれる。やがて三人の瞳(邪眼ではない)が捕らえた奇跡! ひたすらに美しいラストシーンは、一見の価値あり。もちろん、大スクリーンが望ましい。
なんにも解決しないまま「FIN」を迎えるストーリーに、やるせない気持ちが残る。「人間の違いは母親が違うだけだ」という台詞があったが、子供のために颯爽とプエルトリコに乗り込んでいく、偉大なる母の愛と、盗品を売り捌いて、金(母の旅費も含む)を工面する、せせこましくもリアルな父の愛の対比にも、もやっとさせられる。ファニーと母親の断絶についても気になるところだ(原作未読で反省)。〝一人前の女〟になっていくティッシュの変化をファッションが巧く表現している。
メゾン・マルジェラのトレードマークは、タグの四隅に縫い付けられた白糸だ。つまり、すぐにでも本体から剝脱し、署名を喪失する可能性を示唆する。事実、ここにはデザイナー本人は不在で、主人公がワンカットも映らないという稀有な映画となった。スタッフ集合写真の真ん中に穿たれた空っぽの座席。服だけが残る。作者の消滅。これは日本絵画史で言うところの「誰が袖」だろう。着物が衣紋掛けに脱ぎ捨てられた無人ショット。かつて在ったものの痕跡を探すスリリングな体験だ。
どこまでも刹那的であろうとする主人公たちの生きざまが素晴らしい。イングランド北部の田舎学生にとって、ソウルなんて地場の音楽ではないし、ただの輸入品に過ぎない。しかし借り物に踊らされるという滑稽さを彼らは甘受し、熱にうなされつつ踊り狂うことの刹那におのれの生を懸ける。そして筆者はその滑稽な虚勢を愛する。この虚勢こそが大輪の華を咲かせる種子ではなかったか。われらシネフィルも青春期をあまりにも大量の映画を見ることで蕩尽した。この映画は同類の証しだ。
ここに穿たれた星1個は、容易に星5個に転じうる1個ではある。だが本作を肯定するためには、まず否定の手続きを前提とするようだ。本作には人類に取り憑く土地神話がグロテスクに横たわる。故郷至上主義は、中東を見れば明らかなように不幸の始まりだ。より良い環境を求めて移ろう軽薄性こそ生物なのに、不毛の地にしがみつく執着心に対する本作の寛大さは罪深い。村民は何代もこの地に本拠を構えた。その実際的理由が隠蔽されている。自然へのサディズムが空恐ろしい。
撮影監督J・ラクストンがNYハーレムの街頭をスタイリッシュに切り取り、N・ブリテルが心揺さぶるムーディな吹奏楽を用意する。ここには映画を傑作たらしめる要素が充満しているぞ。いやちょっと待て。もう一人の筆者が注意を喚起する。トランプ政権下、黒人抑圧を告発する物語は意義深い。しかし無垢を絵に描いた可憐な主人公カップルのキャスティングをはじめとして、ここには、目を瞑ってはいけないクリシェも充満していないか。あえてそこを問いつつ鑑賞してほしい。
またしてもファッション業界のドキュメントかと、こちらは少しユーウツになる。例によってカリスマ・デザイナーの功績とかキャラを周囲の関係者がコメントしていく。だけど主役は顔出ししない。一番身近にいる相棒の女性もそう。その謎が後半になるに従って明らかになる。この構成が効いて。やりたいことを続けたいという作家の感性。メジャーになると商品化が偏重されるビジネスの論理。そんな作り手の世界、その普遍性が浮かびあがって。最後にこの映画題名の切なさが沁みてくる。
いやはや70年代中盤の英国北部でこんな流行があったとは。ディスコ・ミュージックじゃなくてソウル、しかもレアものをかけまくるクラブ。そこで若者たちが踊りまくっていたなんて風俗描写だけで興味津津。中身は60年代怒れる若者たち映画を彷彿。ただし反抗抜きだけど。主役の男の子二人がチンピラ顔なのが実感。彼らがDJで売り出そうと奮闘する様を軸にしているが、展開は行き当たりばったり。そこが青春ものらしい。けどもう一つ胸に迫ってこない。何かこれ裏打ちがない印象で。
うんうん唸っている映画。寒い、ひもじい、貧しい。村の人々から差別され、家族とは離ればなれにされ。もうどうしようもなくなった男が、それでも屈すまいと巨大な山に向かって闘い続ける。山が叫び、呻きの音響効果の凄さ。リアリズムからはじまったこの映画が、どこか神話的寓話に昇華される。はるか巨大な存在に対峙する人間のもがき。その孤高。そこになにかカチリとした作り手の魂を感じて。力みに力んだこの演出。それが、映画の醍醐味にもう一つつながらなかったもどかしさも。
無実の罪で黒人男性が収監される。恋人と家族が留置所から出すために奔走する。そういう映画かと思った。が、映画は彼と彼女が愛を深める描写がかなりの分量でカットバックされて。そうか、これはラヴ・ストーリーなのか。それゆえ二人の受難が際立つんだと頭では受け止めても、どうも納得できず。嘘の証言をした女を母親が異国まで行って探し当てる。そのために双方の父親たちが苦労して金を稼ぐ。そこが断片の挿話にしか見えない。この監督、前作もそうだったけど、脚本が弱い気が。