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えっ、チクワちゃん!? むろんこちらの早トチリ。でもあながち間違っていないのかも。都会のピカピカした溜まり場で、金魚のフンのように仲間たちの間を漂いながら、いつしか独りはぐれ、あげくバラバラ死体となるチワワちゃん。彼女ほど悲惨ではなくとも、そのチクワの穴にも似た無自覚的空洞感は、多くの青春に共通するものがあるし。過剰なほどバブリーでポップな演出が、逆に彼らの孤独感と不安を浮上させ、その辺りもスリリング。都会の青春というメッキが剝がれた終盤も痛烈。
ヒェーッ、もうお手上げ!! 薄っぺらな生臭男女たちが、ラブホの一室を出たり入ったりしながら、あっち向いて舌を出し、こっち向いてあれこれ言い訳、しかもキャラが変わっても同じことの繰り返し、さらに死人まで登場してのバカ騒ぎ、勝手にやってくれ!! 宅間孝行の作品は映画方面しか知らないが、泥臭いヒューマニズムの人という印象は悪くなかった。が今回はロクデナシたちによる墓穴掘りごっこ、観ているこちらは最後まで客席で置いてけぼり。俳優陣の怪演!? も空しい。
挑発的で禍々しいタイトルだが、アララ、内容自体は、死にたい子どもたちをパズルゲームのブロックの一つに見立てたアリバイ崩しで、廃病院を迷路にしたタテ、ヨコの動きも、まんまゲーム形式。完成時には集団安楽死が待っているという設定で、その過程で各子どもたちの死にたい理由などもザックリと描かれているが、ブロックの色の違い程度の印象しかないのも空しい。ゲーム映画にイチャモンをつけるのも大人げないが、死にたい子どもたちまでゲームネタとは、怒る気力もなし!!
「しあわせのパン」のパン、「ぶどうのなみだ」のワイン、そして本作ではチーズと、どうも北海道映画シリーズは、ごはんに味噌汁という食生活はお呼びじゃないらしい。しかもどの原材料も有機栽培、無農薬の手間暇かけた特産品。確かに人から貰えば嬉しい品々だが、3作も続くと、苦労話に美談を盛り込んだ、観光&特産品のパンフレットシリーズのよう。同じ北海道が舞台でも、大泉洋が主演だけに吉永小百合「北の三部作」ほど重くも寒くもないが、次回はぜひ米作りの話でも。
げ、「スプリング・ブレイカーズ」のパクリか、と若干疑わしい眼で見始めたものの、エキストラも含め出演者陣がビキニと海パンを若い肉体で着こなし、跳ねる動きに高さがあり、本家に迫る堂に入ったノリで画面に汗と精液と愛液の臭いを充満させたことには唸りました。なおかつ模倣の限界を知り、そこからは独自の語りやイマココ感を出してきたのも良かった。岡崎京子原作?(観終えてから資料で知った) 余裕で岡崎京子原作映画化の最高傑作だと思う。ノスタルジアじゃないから。
手法に依拠した映画の不自由さと面白さ。キャストの熱演にも圧され飽かず楽しく観たが受け入れられないことが二つ。ひとつは最初のほうのラブシーンで、あの鎖骨にローション塗ってカラダ擦りあわせてアハーンっちゅうのは何なの。入ってないだろ。それとも私の考えるセックスの仕方が間違っているのか。妻も子もいるのだが。もうひとつは唐突で蛇足な勧善懲悪ラスト。いまだに「太陽がいっぱい」のドロンの逃げ切りを許さない感覚か。エンドクレジット途中の退出をお奨めする。
ソリッドシチュエーションスリラー(と「十二人の怒れる男」)のゲーム性が逆説的に真摯な語りになった。先頃「アンダー・ザ・シルバーレイク」を観たとき、青春探偵、という語を思いつき、その感じを身の内に飼った。「BRICK ブリック」とか、「旅路 村でいちばんの首吊りの木」の早見優のことも考えた。若さゆえに概念が先走るとき現実が未解決の事件に似ること、謎解きが痛みになること。あと、新田真剣佑劇場。一挙手一投足に漲るエモい知性がこちらのハートを地獄突き。
まったくもって勝手にこういう映画と魂の闘いを続けてきた。「かもめ食堂」を代表的な例とするような、丁寧に生きる系映画。都会に憧れない映画。家具とか内装が白木づくしの無印良品のカタログみたいなところで暮らす人たちの映画。素晴しいとは思うが、自分がそうは生きられないのと、そういう映画の人物や世界に、カットの声がかかると同時に消えうせていそうな持続不可能さを感じてしまい、反発してきた。だがあれを目指すほうが健康に良い。すいません。私は敗北しつつある。
多角的な証言によって〝チワワちゃん〟の実像を積み上げてゆくという原作に沿った構成。奇しくも平成最後の時代に製作された本作は、現代の「市民ケーン」(41)とも評すべき。そして音楽をはじめとする文化や文明の利器が変わっても、若者たちが社会へ抱く不信と不安は普遍的であると指摘。岡崎京子の教典を基に、その精神を受け継ぎながらも若者たちが皆〝地方出身者〟であると描いた終幕は、ある意味で原作を凌駕。〝チワワちゃん〟のビジュアルを体現した吉田志織も素晴らしい。
冒頭約20分のワンカット、リアルタイム進行、密室における会話劇。これらの要素によって「劇団主宰者による演出だから舞台的なのだ」と単純に紐付けてしまうのは勿体ない。例えば、〝公務員〟という言葉の持つ固定観念によって観客をミスリードさせ、劇中のカメラに記録された映像を観ているという体の我々観客にフレームの外側を想像させていることを窺わせる。そして、日本映画界の現状に苦言を呈してきた三上博史が、14年もの時を経て主演を引き受けた点にも本作の意味がある。
社会が多様性を重視する傾向を反映してか、本作では〈生と死〉に対する価値観が12人それぞれなのも特徴。表層的にはネガティブな青春群像を描いた密室劇のように見えるが、実のところ、たったひとりの意見が全体の意識を変えてゆくという「十二人の怒れる男」(57)と同じ物語構造を持っている。〝死にたい〟と願う12人分の事例が持つ多角的視点は、現代社会の持つ問題点を指摘。死の香りに満ち溢れていた悲観的な集団が、自己肯定に導かれてゆくプロセスによって警鐘を鳴らしている。
〈食〉を扱う作品を取り上げる際、これまでも「おいしい」という類いの言葉を使わずに料理・調理されたものを如何に「おいしく」見せるのかを問うてきた。本作でも「おいしい」という言葉を連発するが、香ばしさを感じさせる〈音〉や、熱でのびるチーズという〈視覚〉に訴える描写によって「おいしさ」を冒頭から演出。「おいしい」と感じていることが〝平和〟である証拠だと描くことで、大泉洋を主演に北海道と食をテーマにする地産地消大喜利という更なる連作への可能性を覚える。