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1992年はアメリカに住んでいた時期なので良く覚えている。CNNをつけるとロドニー・キング事件とロス暴動のニュースで持ち切りだった。本作は当時のニュース映像をふんだんに使いながら、あの時代にLAのサウスセントラルで、身寄りのない子どもたちを預かって育てる、ひとりのアフリカ系の女性ミリーを描く。親子二代でイラク戦争を仕かけたブッシュ家のような好戦的な権力者がいる一方で、ミリーのような新しい家族のかたちを模索する民衆がいることがアメリカの救いなのだ。
高層ビルがひしめき、きらびやかなネオンに彩られる摩天楼のイメージが強い香港。それはクリストファー・ドイルが撮影した「欲望の翼」や「恋する惑星」によって多少は形成されているのかもしれないが、実際の香港は、九龍半島と200以上の島々がある多島海だ。香港島は山がちで登山が盛んだし、本作の舞台となったランタオ島の大澳は、水上家屋や水路が残る静かな漁村。90年代のアジア映画を想起させるドイルの美しい映像を眺めていると、知られざる香港の片田舎を旅したくなる。
映画自体は良質なロードムービーであるが、ここで注意喚起をしておきたい。どうして世界中で第二次世界大戦中のホロコーストを題材にした映画が、今もこれだけ多くつくり続けられているのか。それは記憶されるべき題材ではあるが、ならば、なぜナチスによるロマの虐殺、あるいはチェチェン人やアルメニア人の強制移住や虐殺をテーマにした作品はほとんどないのか。誰が映画製作に出資し、誰がそれらの映画を評価するシステムの中心にいるかによって偏向が存在することは明白だろう。
解説や批評を読んで、腑に落ちる映画がある。本作を見終わって、何か釈然としない心地が残ったままで解説を読み、これが実際にあった誘拐事件をモデルにした物語なのだと理解した。事件や事故で愛しい人を亡くしたとき、残された者は、彼や彼女が内的には幸福な最後を迎えたのだと信じたくなる。それが唯一の癒しの方法だ。同様に、理不尽で救いようのない現実に対して映画にできることは、本作のように、すでに起きてしまったできごとを想像力によって覆すことくらいではないか。
原題が「KINGS」のこの映画、テーマからして92年のLA暴動のきっかけとなったロドニー・キングを意識し、人種や貧困の問題が深刻化する現代はさらに多くのキングがいることを意味していると受け止めた。けれど少女から女性になる季節を瑞々しく描いた監督デビュー作「裸足の季節」とは勝手が違ったようだ。子どもたちはともかく、主人公ミリーと隣人オビーについては脚本での掘り下げが浅かったか。意欲的なテーマなのにH・ベリーとD・クレイグを活かしきれず、起用が勿体無い。
監督や俳優と並び、撮影監督としてその名前が話題になるC・ドイル。先進的でスタイリッシュな映像センスのドイルが脚本・撮影・監督に携わっているだけに映像詩を見ているよう。奇病で昼間は自由に外出できない設定のヒロイン。幽霊が出ると噂される廃屋。こうした夢幻的なしつらえがストーリーに勝っているので、もどかしさは否めない。だが真珠の母貝アコヤガイは混入した異物を核に真珠層を巻く。それを思えば、旅人(異物)オダギリジョーを核にしたこの映像詩、情趣がある。
ここ数年、様々なナチスものが公開されているが、この映画は異色な一本。出会った女性たちを味方につけて(巻き込み)目的を遂げる一徹さが全篇に満ちたロードムービー。その行状を老人の我がままと片付けることなかれ。頑固さが生む周囲との温度差と、その可笑しさは物語のご馳走であり、併せてユダヤ人問題の風化に警鐘を鳴らす役目も。皮肉とユーモアの匙加減が絶妙で、ミゲル・A・ソラ、アンヘラ・モリーナの共演は味わい深い。クライマックスの描き方に感動のツボを押される。
実際の酷い誘拐事件を幻想的な映像で綴り、少年と少女のラブストーリーに昇華させたセンスは○。カギは二人の純な心。忽然と姿が消えた少年を救いたい少女の必死の思いが、心象風景として幻想的な映像になる。そして奔走する彼女の存在は、死の淵で生きたいと切に願う少年のリアルな希望。結果、事件は現実を超えた視線を宿すファンタジーになったが、他方、少年の家族を含めた周囲の人の「知らない振り」は、マフィアがはびこる地の現実に即した防衛手段だろう。不気味で恐ろしい。
現ボンドのダニエル・クレイグ&元・ボンドガールのハリー・ベリーの共演に、007つながりを思ってどうしても顔が緩む。近所の口うるさいおじさんに擬態していても、彼の正体はジェームズ・ボンドなんだ……! という中二病的な妄想にひたり、ちょっとしたアクションにもその片鱗を目ざとく見出そうとしてしまうのは、クレイグが現役ボンドである今しか味わえない楽しみ方だ。ボンドの呪縛をまとって普通の映画に出演するクレイグというコンテンツが、個人的には嫌いじゃない。
いまおかしんじ監督が「おんなの河童」(11)を撮ったとき、カメラマンをつとめたクリストファー・ドイルに、撮影現場で会ったことがある。海辺のロケ地でのドイルは誰よりも勢力的に動き回り、パワフルに現場をリードしていた。そのとき同行していた女性が本作の共同監督ジェニー・シュン……ではなかった気もするが、世界中を自由に飛び回る異邦人である彼が、自らの監督作にアイデンティティにまつわるテーマを選んだのが興味深い。それは詩のようなドイル節のきいた世界だった。
物語はいかにもさりげなく幕を開ける。頑固老人のロードムービーの珍道中というふうに。実際それは間違っていない。老人がホロコーストの経験者であり、旅の目的がかつての恩人に会いに行くことである以外は。演じるミゲル・アンヘル・ソラのややシニカルで不屈な眼差しが、行き当たりばったりとも言える旅の指針を貫く。監督の「彼は役者としてちょっと気難しい部分もある」という発言も納得のリアリティ。その積み重ねが、始まりと同様さりげないクライマックスの重みにつながるのだ。
思いを伝えた直後に姿を消したジュゼッペを、ヒロインのルナは実に辛抱強く探し続ける。大人たちの無視と沈黙への抵抗から青く染めた髪が、坊主に刈られてからボブに伸びるほどまでには。それは現実と幻想の境を彷徨う思春期の心象風景そのものであり、撮影のルカ・ビガッツィが、パオロ・ソレンティーノ作品でも披露した圧巻の映像美で魅せる。馬に乗って駆け抜けるジュゼッペの麗しい残像が刻みつける痛ましい事件。ルナを演じたユリアの、少女らしくなく低音の利いた声が素晴らしい。