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群馬県が舞台の青春群像劇といえば、「高崎グラフィティ」が記憶に新しいが、本作の舞台は前橋で、高崎よりちょっと東京から離れている。その分、田園風景が広がっていて、高校の同級生男女7人が自転車で疾走するシーンなど、青春の定番だが気持ちいい。7人のキャラの違いやアンサンブル演技、演出も活き活き。が7人がそれぞれ自分の道を目指すようになってからのドラマがいささか短兵急で、故郷も仲間もどんどん遠くなり……。「ここは退屈迎えに来て」ふうなゆるさがあれば、と思う。
神や悪魔の存在などに一切触れずに、超常現象を連打する演出につい嬉しくなり、その勢いで日本ホラー小説大賞の原作を読んでさらにビックリ。えーっ、この人物、この設定、このエピソードを、映画ではここまで大胆に遊んじゃっているんだ。葬儀や結婚式シーンの不穏な悪意や雰囲気など、原作にない場面のいじわるな演出も妙にゾクゾクする。そして各俳優たちのイメチェン的怪演。岡田准一の乱れた演技も新鮮だ。終盤のスペクタクルなお祓いシーンといい、中島監督はやることがでかい。
ここまでハイテンション、ここまでド派手なワルふざけでハナシを進められると、観ているこっちもついイケイケ、ドンドン、アキレつつ、楽しんだり。しかも演出的なワルふざけに悪意がないから消化の良さもバツグンで、観終ったら妙にスッキリ。ニセコイ当事者2人のやりとりがキツいボケとツッコミのノリで、でも力関係は対等というのもラブコメのお約束ごととして愉快。数十人の極道役やマフィアの面々のセリフもパロディみたいに愛嬌があり、出番は少しだが、彼らも労いたい。
この映画を製作した愛知・新居浜市は実に太っ腹!! 冒頭にかつてこの地で栄えた別子銅山の写真が使われているので、それ絡みのハナシかと思いきや、ダメダメ公務員のサンプルのような若い主人公を登場させ、パラレルワールドまで用意して、なだめすかし……。いわゆるご当地映画とは異なるエンタメ系を狙ったのだろうが、主人公が甘ちゃんすぎて、どの時空間でアタフタしようがこちらに何も届かず。で、五輪のマラソン金メダルは、夢なの、現実なの?ご当地映画の進化型もつらいのよ。
観ながら薄々予測できたラストだが、ラスト数カットの決定的な通過と不可逆の感覚は素晴らしかった。ひとときの甘さと見栄えだけの、歯や身体に悪いだけの菓子のようなキラキラ青春恋愛映画を日頃食わせつけられている。それらの映画はいつもあわてたように幕を引いて終わる。かぼちゃの馬車のように自らの持続不可能さを知っているから。本作はそこに意識的で、さらに射程を伸ばし青春が終わるところまでをやった。キラキラと青さのその先へ。良い。あと鳩山由紀夫氏に見せたい。
なにかが足りないという場合、大抵そこには哲学がない。本作が原作や企画から映画になっていく過程で、真っ当かつその道理が理解できることばかりがおこなわれていたことは疑いない。原作題名から魔物の名〝ぼぎわん〟をとりました、人物を加えた削った、あるあるなディティールを盛りました。しかしそこでこれが堂々たる日本版「エクソシスト」にもなりうる、「インシディアス」「IT」「へレディタリー」と並びうる可能性もあったことを考えたか。この映画、私には来なかった。
世界的に流通するハリウッド映画や評価と輸入配給のふるいを通って日本に入ってくる外国映画と、多くの日本映画の違いを言えば、それは明確な演出の指針の有無だろう。そんなに難しいっぽい話でなく、映画の立派さやテーマの話でもない。コメディ、恋愛、娯楽映画のこと。やつら洋画にはその場面ごとにくっきりした狙いを感じる。役者がどう見せるか迷いがない。だが邦画でもその迷いの少ない映画群がある。漫画原作もの。三次元化が現場。ここでは監督も役者も指針を得ている。
クライマックスを経て顔を汚した主人公とヒロインがとてもチャーミングだった。ところで、おじいさん役が草薙良一さんで、画面で観た瞬間わあ、と声を出してしまった。偏った見方だがこの映画でいちばん私にとってスター。数え切れないほどそのお姿を観てきたわけですが、やはり「天使のはらわた 赤い教室」のヤクザはキレてた。あれはブニュエル「昼顔」に出てくるピエール・クレマンティに匹敵する。お元気そうでなにより。本作では穏やかなおじいさん。今後も出続けてほしい。
1990年代に生まれた若者たちの〝夢破れた〟物語だからか、自身の夢に向かって歩んでゆく姿よりも、むしろ若くして結婚した男女の慎ましい生活の方を魅力的に描いている。映画のオープニングとラストシーンで同じロケーションを用いることによって生まれた対比。それは「たとえ同じ〈道〉を歩いたとしても、それぞれの人生は異なる」と示唆している。それぞれの時代にそれぞれの若者がいてそれぞれの悩みがある。だからそれは「時代のせいなどではない」と本作は言わんばかりだ。
〝あれ〟は、弱くて脆いものを狙ってやって来るという。それは現代社会における人間同士のコミュニケーションの欠落や、ネット社会におけるセキュリティの脆弱性に対するメタファーのようにも見える。〝あれ〟の存在を何となく感じさせるため、望遠レンズを多用して常に画面の前を人やモノなどによって少しだけ遮らせていることが窺える。また過度な情報量を詰め込んだ中島哲也節ともいえる画面構成や、瞬きひとつしない松たか子によるやりたい放題にも見える演技アプローチが秀逸。
劇中の現実と劇中劇という入れ子の構造を持った「ロミオとジュリエット」がもたらす改変。その改変が男女の心の揺らぎを互いに同期させ、描写の対比が生まれることで本作の終幕に違和感を持たせない。同様に、偽物の恋を描くことで観客をミスリードさせてゆく展開にも違和感を抱かせない。つまり、劇中の登場人物が抱く先入観だけでなく、観客の作品に対する先入観をも操作しながら巧妙に物語を展開させていることが窺える。寡黙なヒットマンを演じた青野楓の佇まいが素晴らしい。
〈時間〉を描いた作品、特に〈タイムパラドックス〉や〈タイムトラベル〉の類いを題材とした作品には優れたものが多いとされる。それは〈時間〉というものが、老若男女、あるいは貧富を問わず平等であるという普遍的な〝何か〟を観客に訴求させるからである。本作もまた〈時間〉を題材にしているが、全篇を通じて役者に対してあまりにも戯画的なメイクを施した理由は我が理解に及ばず。ストーリー構成やアイディアの面白さを以てしても看過できず、作品への評価を下げざるを得ない。