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空から白い箱がゆっくりと降ってくる冒頭シーンから、ユーモアたっぷり。箱に入っていたのは、宙にも浮けば、お喋りもできる不思議な椅子である。権力の象徴として主人公ギオルギが注文した高級椅子は、大臣職を追われ、家を差し押さえられても、ギオルギから離れない。落ちてもなお、欲に憑かれた男の本心を象徴しているのだろう。「人のものなんか忘れなさい」という故郷の母の言葉でようやく自分の居場所に辿り着いた主人公は、椅子をどうするか? 風刺も利いた豊かな人生讃歌。
強いディーヴァの印象が強かったので「私のために祈ってね」という歌姫は少女のように可憐で、ちょっと意外だった。母や夫のために、歌い続けたカナリア、じゃなくて、カラスは、オナシスと出会い、すっかり顔つきが変わる。歌ひと筋の人生から羽ばたき、目の前に広がる美しい世界で、険のとれた、穏やかな眼差しで、楽しげに歌う姿は、しあわせそのもの。ゆえにその後、彼女を襲う悲劇を前に「打ち勝つ力をお与えください」と祈る姿は哀しいが、歌姫は甦るのだ、そうエレガントに。
もっとシリアスな作品かと思いきや、意外とコミカルな展開に戸惑いつつ(特にハワイアン風音楽が流れる中、一家団欒で肉まんを頬張るラストシーンにはのけぞった)、ハ・ジョンウ演じる主人公の不器用さというよりは、幼稚さに苛々しながら観ていた。それでも子供の命を助けようと自分の血を売る親の、普遍的な愛情を目の当たりにすると、涙腺が緩んでしまうのはなぜか? と自問自答すれば、それは間違いなく近親憎悪である。時代は違えど、愚かな小市民のしょぼい愛に泣かされた。
「試練が厳しいほど、幸福はつかみやすい」という重々しくも空々しい大統領の言葉からはじまり、バスキアのガールフレンドの「(バスキアの)パワーを愛すべきよ」という的を得たキュートなコメントで締める。サラ・ドライヴァー監督の卓越したセンスが、隅々にまで行き渡っている。変化に富んだ、時代の風雲児の生涯と同様、グラフィティから音楽、文学へと貪欲に表現スタイルを変えてゆく鮮烈な姿を、当時彼とおなじニューヨークに居た人々の証言で光を当てる。まさに人生というアートだ。
ジョージア映画の名作「ピロスマニ」(69)の監督ギオルギ・シェンゲラヤの兄エルダルの新作であり、エルダルは今年85歳。巨匠イオセリアーニよりも1つ年上というジョージア映画界の最長老によるこの新作には、老境ならではの闊達な稚戯があふれる。移民政策の失態によって大臣職を追われた主人公ギオルギ(監督の弟の名前だ)は苦境に陥るが、老監督の手綱と言うべきか、苦境の度が進むにつれ、乾いたユーモアも冴えわたる。最終的に葡萄畑万歳となるのはジョージアらしい。
マリア・カラスという人は「顔」の人だ。奥深く豊饒な歌声も素晴らしいが、毒々しさをも含むディーバ的相貌によって記憶され、そのイメージはスキャンダルで補強される。カラスとして生まれたからにはカラスとして生きるほかなしという自明の事実が、これほど悲劇的トーンを帯びてしまうのはなぜなのか。さまざまな「タラレバ」のプリズムを増幅させるからか。パゾリーニ「王女メディア」(69)出演後も長生きして女優活動にシフトしていたら、彼女にはどんな役があったのか。
父と母、幼い子どもたちのファミリーメロドラマだが、真の主人公は街だ。朝鮮戦争後の貧しい韓国中部の地方都市が生々しくその相貌を甦らせる。道路はガタガタ、バラックの家々はろくに戸締まりもしていない。なかんずく印象深いのは、父親役のハ・ジョンウが家計のピンチになると血を売りに行く「平和医院」で、医院にはいつも血売りの行列ができている。大島渚「太陽の墓場」(60)をつい思い出す。ガラス瓶に血液が貯まっていくジョロジョロという音が切ない。
有名になる前の十代バスキアを、彼をよく知るアーティストやキュレーターたちが語る。大半が関係者インタビューの数珠繋ぎなので、単調ではある。ただ監督は「豚が飛ぶとき」以来24年ぶりの新作となる、NYインディーズの女性監督サラ・ドライヴァーだけに、その思い入れもひとしおだろうと思う。彼女自身、パートナーのジャームッシュやリー・キニョーネス、バスキアらが形成したNYストリートシーンの一員だったわけだから。懐古主義と呼ばれてもいいという覚悟の一作。
ソ連からの独立運動があり、その後の混乱があり、内戦があってと、ジョージアの国情は不条理なことばかり。イオセリアーニがそうだったように、この老練監督も屈折した笑いで、ころころ変わる政治状況を諷刺する。政治家出身ゆえか実感もこもっていて。大臣の椅子を象徴的に使ったあたりは、ひと昔前のおとぼけ喜劇を見ているよう。政権争いなんてツマラんものに拘ってないで、田舎でゆったり暮らしましょうというラストまで、お爺さんの昔語り風で。こちらものんびりと眺めていた。
カラスの生涯を彼女の歌で綴って。この前のクラプトン映画と同じように、他者の証言は一切なし。ご本人のインタビューと自叙伝からの言葉で綴っていく。潔い。秘蔵・蔵出し映像も満載で、それを編集機の画面で見せたところに、この監督の映画スタイルが匂う。カラスを神格化せず、ひとりの女として描く。が、いくら私生活を見せても生臭さはない。やっぱり彼女は偉大なるアーティストとばかりに、その歌声をたっぷり聴かせる。人間記録を背景にして、音楽映画で貫いた。そこがよくて。
自分の息子が誰の種かをめぐって、町中が大騒ぎ。なんていう前半部は陽気なイタリア喜劇の如し。まま子いじめの件りは、ちと陰湿。父親が重病の息子を助けようと、売血を重ねる――という辺りから、これでもかの涙と感動の洪水となって。その種の趣向が苦手なこちらは、もう勘弁してと手を合わせるばかり。なんだか昔々日本で大流行の母物映画を思い出す。とはいえ、主演も兼ねたハ・ジョンウの演出が意外としっかりしており、いやだいやだと思いつつ、けっこう最後まで引っ張られた。
80年前後のニューヨーク・アートの状況が具体的に分かって。パンクとかグラフィック・アートとか、こちらはレコードで聴き、雑誌で見ていただけだった。それが具体的に画面で紹介され、証言されて、ああそうだったんだと腑に落ちるところも。ただ、全体がカタログ的なのは物足りない。若きバスキアの描写もそうで、彼を知る者の発言は重ねられても、その生き方とか本質はよく分からない。いっそ、バスキア生涯のドキュメントに徹したらと。なんか監督個人の思い出のアルバム的映画。