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松たか子を平然と〝前座〟扱いする冒頭シーンから煙に巻かれる。そしてどこか、昭和男の無骨さと律義さが漂う右近役の山田孝之。かなりぶっ飛んだ設定のぶっ飛んだハナシだが、暴力と背中合わせのゆるい笑いや、疎外感に裏打ちされた友情はかなりこちらの心を揺さぶり、その真面目なフマジメさ、実に面白い。右近と、女装癖のある牛山(荒川良々)の前に現れるサビたロボットも愛嬌たっぷり、彼らのお助けマンとして大活躍。左近・佐藤健もクール。原作、監督、脚本も文句なし!!
綾野剛主演で2作続いた「新宿スワン」の出涸らしの、更に出涸らし。主人公を地方出身、パンチ頭の童貞純情青年に仕立てているが、騒々しいだけのただのチンピラ。スカウトマンになってからのエピソードもうんざりするほどチープで、途中で逃げ出したくなった。演出を言えば、主人公が先輩スカウトマンと延々と殴り合うシーンに往年の西部劇を連想したり、郊外を自転車で走るシーンの長回しにチラッとカンシンしたが、ハナシに身が入らなかったから目立っただけのことで、ハーッ。
そういえば2015年の統一地方選挙の期間中、李小牧氏を新大久保駅の周辺で見かけたことがある。立ち止まる人は皆無。歌舞伎町の裏表を知り抜いている彼が、あえて日本に帰化してまで政治家を目指すその意図は――。当時、韓流の店が立ち並ぶ新大久保はヘイトスピーチが吹き荒れていて、通りから一歩離れた我が家にもガンガン騒音が聞こえたものだ。そんな状況での区議立候補、このドキュではいまいち真意は摑めず、監督の突っ込みも弱いのだが、人間観察として見れば面白い。
96年生まれの脚本、監督と、95年生まれのプロデューサー。いずれも女性で、うわァ、まぶしいっ。でもハナシは背伸びをしすぎて、逆に幼稚。母親の愛人にレイプされた14歳の少女と、体を売っている27歳の元看護師。舞台は人がスカスカの地方の町。孤独が彼女たちの接着剤。それにしてもレイプとか売春とか、女性、いや人間にとっての大ごとをあえて題材にする若い作り手たちの、スタンドプレイ的な媚びがイヤラシい。当然出てくる男は全員ロクデナシ。ただ井樫監督、演出力はある。
狩撫麻礼がいろいろ難しく考えてたことをいましろたかしが脱臼させたものを向井康介と山下敦弘がまた脱臼させつつ骨接ぎした。川本三郎原作「マイ・バック・ページ」のときのように彼らに対して原作者はそれが媚びてるわけでもない今の時代の表現なら認めるよというだろう……たぶん。佐藤健は本作でかつてなく大人になった。あと、「迷走王 ボーダー」のように便所を直した部屋に住んでいた知人や一水会事務局でバイトしてた頃の自分を思い出した。この男たち(女たち)は実在する。
なにせ間違った撮り方だと思わせるところがワンカットもないのだから、これは世が世なら燦然と輝いたであろう一級のB級的手腕だ。これは一級のA級より難しくかっこいい。「新宿スワン」や園子温と真逆のベクトル。間違ってない撮り方が守りじゃないところにたしかさがある。カット尻の長さ、引きの画がエモい。そこが攻めてる。ただこの監督がキャリアとして今後どうしたらいいのかわからないところが世の不幸。構造的にしっかりした脚本(永森裕二)も素晴らしい。今年ベスト10位。
このドキュメンタリーで描かれる李小牧氏の大胆さや率直さがそれを観る私に感じさせるのは日本という場の恥ずかしさであった。それは、ネットの情報行き来の発達から都知事選政見放送が中国人に見られその自由さ野放図さに彼らが感心するのを見ると逆にかの国の不自由さに気づくわけだが毛沢東体制化での父親の浮沈にショックとルサンチマンを持つ李氏がリベンジ的なエモーションで新宿区議会選に出て真正面から日本は開かれてるから! と言うときに直感したガラスの壁のことだ。
ニーナ・シモンやナタキンとは違う系統ながらやはり猫族的な顔貌の桜井ユキが良い。冒頭の純白看護師姿より二つ目の登場場面の暗がりでのフッカーな夏服とドスの効いた表情に惚れる。それと小松未来の純朴さの対照。ファーストカットの鮮やかさ、その距離感、色彩の透徹とそれを目にすることの快感が、本作全体に流れる高純度なものや絶対への憧れと一致。天文台が出てくるのもそれにつながる。地べたを這いずる生(性?)が彼女らに仰ぎ見ることをさせる。スジの通った女性映画。
世の中の間違いに対して「間違っている」と言える人間は、世間から不器用とされ、やがて社会からはみ出してゆく。そういう意味で、本作の〝物言わぬ〟ロボットと荒川良々の姿は、逆説的に社会の中に馴染んでいるといえる。問題を起こすのは〝物言う〟兄弟の方であり、この二組が血縁と血縁のない二組に分かれる点が真骨頂。これまでも山下敦弘監督は、社会からはみ出した人々への偏愛を描いてきたが、本作でも〝はみ出した側〟へ寄り添っている点で原作との相性の良さが表れている。
城定秀夫監督は「新宿区歌舞伎町保育園」(09)でも新宿を舞台に保育園を起業するホストの姿を描いていたが、本作ではホストの〝あがり〟の仕組みを知るというハウツー的な側面も持っている。残念ながら同様の題材を扱った先陣「新宿スワン」(15)に規模では負けるが、ロケを多用した街の描写は互角か、それ以上の印象。例えば「純平、考え直せ」(18)などと同じように、平成最後の〝新宿歌舞伎町〟の姿を記録していることは、経年化することで更なる意味を持つのではないか。
ナレーションなどを用いず、説明を極力省いたことで、本作に〈観察映画〉的な要素を導いているのが特徴。取材対象者である李小牧の言葉は、奇しくも〝音声によるモンタージュ〟のようなものを生み出し、関心のあるポイントについて観客が次第に考えるようになる。生まれた国と生きてゆく国。その狭間で揺れながらも、市井からの罵詈雑言に対してユーモアで立ち向かう李小牧の姿を映し出すことで、日本の選挙における問題点だけでなく、社会構造における問題点までもが見えてくる。
監督が常に、どのような視点で物事を見ているのかを窺わせるショットの連続。構図は隅々までが美しく、かつ的確で、それらは時に心象風景ともなっている。同じような境遇にある少女と女の関係は共依存にも似ているが、終盤で母性を逆転させている点が秀逸。「弥生ちゃんこそ、すぐに誰かのものになっちゃいそう」と呟く少女の未来には、絶望が待っている。法令遵守の類いに縛られる昨今、十代半ばの小松未来に静かなる激情を孕んだ少女を演じさせた井樫彩監督の未来は、末恐ろしい。