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60年代や70年代を舞台にしたアメリカの青春映画に弱い。コーデュロイのジャケットやパンタロンのジーンズを穿いた人物を見るだけで、その時代を生きたわけでもないのに懐かしくなる。主役は、アメリカの片田舎のどこにでもいそうなパッとしない高校生の男子と、演劇サークルで知り合ったふつうの女の子。そのふたりがサリンジャー探しの旅にでた途端、秋のペンシルベニアの風景のなかで輝きはじめる。さまざまなロードムービーを観た記憶が、この映画を通じて蘇ってくるのだろう。
トルストイの『戦争と平和』やプルーストの『失われた時を求めて』など、長い小説が好きだ。登場人物の人生が移りゆくさまを味わえるからだ。本作にもその興趣があり、13歳から16歳のアンの青春期がやや駆け足ぎみに描かれる。初恋を経験し、良きライバルに恵まれ、育ての親と別れての下宿生活。奨学金があるのに大学にいかず、地元で働き口を見つけ、愛する島にとどまるという決断。映像を通じてアンと過ごしてきた時を振り返りながら、彼女がだした意外な結論に満足して頷いた。
留学したとき、アメリカの高校は米国社会の縮図だと知った。生徒会、アメフトチーム、チアリーダーに属する強者が権力をもち、オタク、変人、同性愛者、人種的マイノリティなどの弱者を牛耳る。大人になれば、それが富裕層と貧困層に変わるだけ。そんな権力関係を簡単に変えられるスマホのアプリがあったら? 本作はお気楽な青春コメディに見えるかもしれないが、このおとぎ話が人々に必要とされる切実な理由は、アメリカでティーンエイジャーでもやらないと中々わからないかも。
冒頭のシーン。日露戦争が進行する満州に日本軍が攻め、駐屯地でロシア兵が混乱するさまを長い移動ショットで撮る、アレクセイ・ゲルマンのような演劇的な演出ぶりに「おお、シャフナザーロフ!」と思わず歓喜の声がもれた。が、その後は『アンナ・カレーニナ』の後日談から、男女3人の関係を回想する心理劇になっていておとなしめの演出。鉄道へ身投げする結末にむけて、アンナを乗せた馬車が猛スピードで走るときの、一連の不吉なショットと荒々しいつなぎには興奮させられる。
隠遁の作家サリンジャーへの関心の大きさを幻想へ膨らませ、それにアメリカの60年代末期の青春と夢を絡め、サリンジャー探しに仕立てたこの物語は風合いが良い。鍵になるのは16歳の主人公のうぶさ。体育会系の部活が幅を利かす中、演劇に熱中する彼の周囲との隔たりに加え、自分に想いを寄せるちょっと大人びた少女との嚙み合わない気持ちが豊かな風合いを醸す。作家本人の登場に喜んでいたら、自宅に入れて話をさせるとは!? J・サドウィスの術中に心地よくはめられた。巧みだ。
シリーズの前作「初恋」で13歳だったアンは、今作では16歳。自分の進路、養父母の健康問題、環境の変化など、大人の試練に直面するのだから、3歳という年齢の変化は重要だ。演じるエラ・バレンタインは額に知性をたたえ、目力が強く、形の美しい唇から利発さがこぼれ、13歳のアンにはこのうえなく適役だったが、現実の重さを背負い成長する役どころとなると、その持ち味が潑溂すぎる。映画ファンの身勝手は承知だが、全体的にドラマが平板に感じるのは案外ここに要因があるのかも。
確かに今の世の中、スマホがあれはほぼ用が足りる。だからといってSNSのステータスをアップデートするだけで〝人生思い通り〟ってどうだろう? 願いごとがすべて叶うアプリを手に入れたモテない主人公が、難しいことを考えないで友人・彼女・名声が手に入る軽快さは今風だが、アプリに人生をあっさり乗っ取られたようで、ドラマとして物足りない。さらにアプリを削除すると同時にリアルな現実に戻れるという筋書きも安易では? せめてスマホ依存への皮肉が効いていれば。
ソ連以外でも何度も映画化されている『アンナ・カレーニナ』だが、日露戦争の話を足し、ヴロンスキーの視点でアンナとの愛人関係を回想させる今回、こんな作り方もあったのかと感心する。同時になぜ今、ソ連で作られたのだろうとも。理由は結末に見たように思う。与謝野晶子が「君死にたまふことなかれ」を発表したこの戦争は、日露間に、今に繋がる政治的な課題を生んだ。ヴロンスキーが中国人の遊牧民少女を気遣うことを含め、現代政治のメタファーと見るのは深読みが過ぎるか。
ナイーブなサブカル男子の代名詞であるかのようなサリンジャーの小説。本作の主人公も思春期特有の憂鬱に心を痛めている。そこへ愛らしいサブカル少女が現れて、自分の傷を理解してくれて、希望を取り戻す……自己肯定を女子に依存して、自分は失態をさらすことなくピュアネスを維持していることがズルいし、できれば裏切られて酷い目を見て欲しいのだが、憧れのサリンジャー自体は若者の味方などではなく人嫌いで隠遁生活を送っていたという実像が何よりも現実の誠実さを物語る。
このシリーズ一連に言えることだが、マイノリティの女性がいかに自我と向き合って社会で生きていくか、その葛藤が原作の醍醐味なのに、強力なストーリーラインに甘えてキラキラの青春ものに変換されているところにどうしようもない違和感を覚える。モンゴメリのストーリーテリングの上手さが仇に。エラ・バレンタインの天真爛漫なヒロイン感がやはり朝ドラを彷彿とさせるのだが、実際にアンをモチーフにした朝ドラ『花子とアン』と比べると、テーマの掘り下げ方の違いがよくわかる。
ディズニー・チャンネル出身の、ビジュアル的にも内面的にも健康的(に見える)男女が、出発→成功→挫折→発見というテッパンの物語を、珠玉の音楽にのせて送る、エンタテインメント界におけるアメリカのポジティブ面が前面に出た一本。こういう「陽」の世界があるからこそ、「陰」の表現も発達する。アイテムこそアプリという現代仕様に「アップデート」されているが、いつの時代にも変わらない王道の力は強い。これはこれでアメリカの良心としてジャンルを継承し続けて欲しい。
帝政時代のロシアにおいて、世間的には「カレーニン伯爵夫人」であったアンナは、皮肉にも「不倫」というスキャンダラスな行為によって、「アンナ・カレーニナ」という一人の女性としての人格を獲得する。かつて結婚後の大人の女性の自我に迫るドラマを語るにあたり、不倫は数少ない有効な手段であったのかもしれないと思えるほど、アンナの脱社会的な振る舞いは魅力的だ。ただし、それを男性である元愛人と息子の視点から描く本作の視点はむしろ男のロマン色が強い。