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宅間孝行の舞台を観たことがないので映画についてしか言えないが、「くちづけ」や「同窓会」などのシビアな題材の作品はともかく、今回は、人物、背景、エピソードなど、昭和を引きずった新派ふうの人情劇で、調子が良すぎてどうも気がイカない。25年前に姿を消した父親を探しにやってくるツンケンした娘と、祭のためにこの町にきている〝寅さん〟仕立ての若者。田舎町や神社の風景は郷愁を誘うが、でも何やら蔵出し映画のよう。あ、近年ドラマが多い原田知世の出演は嬉しい。
患者をサポートする理学療法士の悩みとジレンマ。監督の実体験がもとになっているそうだ。確かに療法士を主人公にすれば、当然主人公がサポートする患者たちの話も絡み、ちょっと言い方は悪いが、一石二鳥的な効果にもなる。が結果的にこの作品、二兎を追うもの一兎をも得ず――の図。つまり主人公が献身的にサポートしてきた元ラグビー選手の顚末が、全てをチャラにしてしまい、どうしてこんな筋立てにしたのだろう。描くべきはプロの療法士の悩みより患者側の深い絶望だと思う。
ミステリーやサイコホラーに限って、後出しジャンケンは可、と思っているのだが、問題は何げない伏線と意外性。睡眠障害の刑事を狂言回しにしたこのホラーは、その点、巧みに作られていて、終盤に判明する種明かしには、そうきたか、と感心する。精神病院内の鉄格子や迷路のような床下など、ヴィジュアル的な仕掛けも効果的で、全体的に低体温で進行するのもスリリング。ただタイトルがいまいち馴染まず、つい、ジンマシンと読みたくなったり。星3つだが、プラス座布団1枚!!
そうか、十年後の日本って、現在とあまり変わらないってことなのか。5人の監督が描く十年後は、大なり小なりすでに日常化している事象ばかりで、それをことさら十年後という括りで描いても驚きも怖さもない。香港の若手5人の「十年」を観たときは、当地の危機的状況をベースにした発想力に大いに刺激されたものだが、やっぱり日本は万事、危機感が薄いってこと。けれども是枝監督が総合監修をしている今回の試みは支持する。ndjc若手映画作家育成プロジェクトを連想したり。
細マッチョヤング寅さん(市原隼人演じるテキヤ)と「闇金ウシジマくん」の暴力金貸し業者男女が転生したよなヤンキーカップル(高橋メアリージュンとやべきょうすけ)がいるが彼らは主役でなくメインのお話は訳あって二十五年別れて暮らす父娘の再会。娘の倉科カナがメソメソしておらず別家庭をつくっていた父にキレ気味だったりしつつ引っ張る。父の相手原田知世が年齢不詳清楚女性で困惑。最後やっと対面、名乗り。定評ある舞台の作・演出者が自ら映画化。堂々王道の泣かせ。
決まり文句としてよく言われる〝実話の重み〟。本作については時折その重みが重すぎて背骨が折れるかと思った。軽く言うもんではない実体験反映のネタの凄み、独自の現場を見てきたひとのつくる話の強さがある。主役を食う勢いの阿部進之介演じる脊椎損傷のラグビー選手のストーリー、「償われた者の伝記のために」という詩の〝わたしには 死ねるだけの高さがあったのである〟という言葉を思い出させる、立ち上がることすらもできなくなった逞しい男の行動には唖然とさせられた。
いまが日本映画の黄金時代なら九十年代は暗黒時代か。しかしその暗さのなかにあった輝き、忘れがたい。北野武、黒沢清は急角度に上り坂を駆け上がり、Vシネは冒険し、Jホラーが誕生し、忽然と役者柳ユーレイも出現した。この「心魔師」という映画はその頃に生まれながら神隠しにあった子が二十年経って年をとらずに戻ってきたような映画だ。いや柳氏は相応に老けて出てくるが。疲れ顔の刑事がオカルティなところにいく話、もっと何にも似ておらず連想もさせなかったら凄かった。
ねらいはよくわかりその方向性には同意するが歯がゆい。本作の作り手たちは日本の閉塞感や先のヤバさを掴んでいてそこを撃ちたいのだろうが、これではまだ敵のエグみに拮抗しえないのではないか。太陽肛門スパパーンのPV的短編映画「世界に一つだけの花」では安倍晋三と勝間和代の似顔絵のお面をつけた校長と教頭が仕切る学校で自己責任といじめゼロが徹底される結果生徒がどんどんポアされる(卓上に置かれた一輪の花になる)が、あれは本作以上に本作企画意図を実現していた。
映画開始から約7分の間、〈音〉はあるが〈台詞〉はない。まるで、〈言葉〉より大切な何かがあると言わんばかりなのだ。このことは、台詞過多とも思える〝よくしゃべる〟登場人物たちが、決定的な場面では心情の本意を〈言葉〉によって語らない点に表れている。映像と台詞というふたつの要素がスクリーンの中で融合することで、〈言葉〉として語られていることとは別の心情を感じさせているのだ。終盤の神社で、画面奥から手前へと移動する原田知世の何気ない動線の美しさに痺れる。
ベッドで握力を測る阿部進之介の表情を映し出したカメラは、棚の上にあるラグビーボールへとパンする。患者のバックグラウンドを映像によって表現しているように、観客は画によって何かを察するという演出が施されている。例えば、ガンを告知される姿、リハビリを諦めようとする姿など、各々の患者による様々なリアクションは、言葉以上の何かを観客が察するように演出されていることが判る。そして、スタンダードサイズの画角が、主人公の窮屈さを表現しているようにも見えるのだ。
箱の中身は開けてみないと判らないように、人間もまた開けてみなければ心の内は判らない。「格子の中の鳥」というファーストカットは、人間が何かに囚われているのではないか?ということを示唆してみせている。タイトルに〈心〉という言葉があるため、心の中を探った先に答えがあるという物語であるかのように観客は錯誤する。人間を〈器〉と考えた時、〈心〉はその中に入る物であってひとつとは限らない。そのことを、乗客がいなくなり空っぽになったラストのバスが表現している。
重要なことは、〝十年後の日本を描く〟というお題を与えられた20代後半から40代前半までの5人の監督が、誰ひとりとして希望に満ちた〝アカルイミライ〟を描かなかった点にある。それは、現代社会が不穏さに満ち溢れていることで、将来に対する不安が微かな希望をも駆逐している表れであるように思える。少なくとも監督たちは(そして私自身も)、今後数十年をこの国で暮らす立場にある。それゆえ、数十年後の教科書に、現代が〈戦前〉と記載されるような社会にはなって欲しくない。