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イスラエルを訪問したとき、政府の人種隔離と入植の政策に怒りを覚えたが、実は最も傷ついているのは現場に送りこまれる兵士や国民なのだろう。本作で重要なのは物語ではなく、ブラックな笑いで政治や社会を皮肉る寓意的な仕かけだ。国境の検問所に置かれた宿舎であるコンテナは、日に日に傾いて沈んでいく。軍もラビも兵士の遺体を取りちがえるほど、無気力で能力を欠いている。国民はフォックストロットのステップを踏むのだが、必ず同じ場所にもどってくるしかないあり様なのだ。
この場で告白するが『赤毛のアン』の小説もテレビ版もアニメ版も食わず嫌いできた。健気な孤児の少女が善良な人たちに囲まれて育ち、自分らしさを伸ばしていく「児童文学」という偏見があった。だが、アンには赤毛を緑に染めるほどのコンプレックスがあるし、学校には優等生や美少女などスクールカーストの問題もある。不公平な先生に反抗し、好きな男の子に素直になれない人間臭さもある。と、誰もが自分の内側にアンをもっていることを確認した上で、次作「卒業」の評に備えたい。
若い画家と人妻の道ならぬ恋、驚くべき替え玉出産のトリック、チューリップ取引に対する時代の熱。物語もすばらしいが、それ以上に映像の重厚さに魅せられる。17世紀オランダが舞台なので、撮影と照明と美術のスタッフは、徹底的にフェルメールの絵画世界を再現するような映像づくりにつとめている。衣裳もドレスのしわの一つひとつから、丁寧にほどこされた刺繡まで見応えあり。何よりも当時のアムステルダムの運河沿いにある下町と庶民を再現したロケセットが本物っぽくて◎。
沢木耕太郎の本に出てきそうな引退直前の中年ボクサーが、娘の好きなピアノを買うべく、世界チャンピオンのスパークリング相手を買って出る。非常にあざとい父娘の物語だが、なぜか涙腺が刺激される。ラストシーンの後に、何十敗と敗北を重ねた実在の「負け犬ボクサー」たちが写真で登場する。劇中に「俺たちがいるからこそ、チャンピオンが輝くんだ」という台詞があったが、「敗者の美学」を内に抱えて生きている人たちのことを思い、繁華街のネオンのなかを背中を丸めて歩いて帰った。
単なる偶然と片付けてしまえばそれまでだが、そうと割り切れないのが運命の厄介なところ。主人公は軍から届いた息子の戦死と誤報の知らせを運命と受け止めている。それを3章からなる物語にしたこの映画は、S・マオズ監督の構成が優れてユニーク。イスラエルの現実をエピソードに取り込みながら、第3章に至ってストーリーの全貌が読め、エンディングで運命の正体が明かされるので、理解力・想像力が途切れると未消化になるかもしれないが、読み解き作業は映画をみる醍醐味でもある。
もともと子ども向けに書かれた小説ではないこの文学を、原作のテイストを生かした脚本と手堅い演出で、危なげない家族映画に。元気のいいアン役、その元気を受け止める形の厳格な養母役と年齢的には祖父みたいなマシュウを演じるマーティン・シーン。3人の俳優のバランスが絶妙だ。終盤の、原作にもあるアーサー王の伝説を野外劇で演じるエピソードで、アンをはじめ子どもたちが見せる伸びやかな活力が微笑ましい。プリンス・エドワード島の美しい四季が存分に堪能できるのも嬉しい。
理性や常識を失わせる、という意味では恋の情熱もお金への欲望も同じかもしれない。その恋とお金に女の悪巧みが絡んで、この不倫ドラマはほんのちょっぴりテンションが高まる。それは女主人と女中が共謀した浅知恵ではあるが、2人の奸計の行き着く先が常識的な結末であることが面白い。フェルメールの絵画に想を得た物語が原作で、映画の中にも鮮やかなブルーのドレスのヒロインがチューリップを持って窓辺に立つ姿、そこに差し込む光など、そこかしこで絵画的な画面も楽しめる。
そもそもスポーツと家族愛は相性の良いテーマだ。好きというだけでボクシングを続けている主人公に対して、家計を支える妻、心情を慮る子ども。そこへもってきて、娘(演じるB・ブレインの利発さ◎)のピアノを買う資金のために、父親がスパーリングパートナーを志願する、とくればテーマのど真ん中をオーソドックスに進む申し分のない展開。ラストで娘が弾くショパンの「夜想曲第2番」の少々ぎこちない調べに、この家族ひとりひとりの気取りのない温かな思いが凝縮されている。
寓話的なストーリーテリングとヴィジュアル的に作り込まれた構図、シニカルな世界観に「ザ・スクエア 思いやりの聖域」を思い出す。映像に込められた意図や、モチーフであるフォックストロットの形式に縛られて、完成度の高さが逆に頭でっかちな印象。ただ、息子の戦死をめぐる両親の感情的なドラマが語られる第1部から一転、当の戦場でのぬるい光景が描かれる第2部では、その退屈さがいい仕事をしている。被害者が他人だったら関係ないという、幸運の裏に宿る利己的な側面が生々しい。
オーディションで選ばれたというアン役のエラ・バレンタインは、朝ドラのヒロインのように眩しく天真爛漫なオーラを放っているが、それがアン・シャーリーという少女の特異なキャラクターを、実際よりも単純なものに見せてしまったかもしれない。アンの自意識の暴走や癇癪は単なるおてんばや思春期の反抗ではなく、求められる少女像と自分らしさ、理想と現実との間で葛藤する生きづらさと結びついたものだ。少なくとも現代においてこの原作を映像化するならばそういう要素も欲しかった。
「ブーリン家の姉妹」でも歴史に翻弄された姉妹の愛憎を時代劇で描いたチャドウィック監督が上手い。ダニー・エルフマンの劇伴もチューリップバブルに沸く時代と恋愛の狂騒を煽る。俳優陣はA・ヴィキャンデルが美しさと野性的なエネルギーを兼ね備えた演技力を余すところなく発揮しており、D・デハーンはキャラ的にやや食い足りなかったものの芸術家くずれの優男を好演。何よりタランティーノ以外でこんなにもクリストフ・ヴァルツの魅力が生かされている映画は初めてなのでは。
殺陣の出来は斬られ役の上手さに大きく左右される。少なくとも役者においては「負け犬の美学」が成り立つ。しかし競技となると話は難しい。敗者はあくまでも敗者だ。元世界王者のソレイヌ・ムバイエがボクサー役で出演しており、佇まいからマチューとの実力差は残酷なほど歴然だが、本作の勝負は俳優がいかにボクサーに近づくかよりも、いかにリングから降りるかである。試合ではなく人生に勝つための物語。親であることと闘い続けることは根本的に両立できないという考察。