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初めてピアノ曲『ジェントル・スレット』を聴いた時、シンプルかつピュアなメロディに驚かされたが、本作中でゴンザレスが語る「僕の中のサティ」という言葉で腑に落ちた。キリストより父親が絶対的存在の家で育った音楽少年は、カナダの大豪邸を飛び出して音楽の道を突き進む中、自分の居場所を見つけ、子供の頃の夢を叶える。自分の人生に代役など立てられぬという美しい人生哲学も彼らしくユニークに表現。ウィーン放送交響楽団とのライブでのクラウド・サーフィンにわくわくした。
ナガ族の人たちは歌をうたいながら、仕事(主に農作業)をする。収穫の秋、輪になった若い男女が稲を蹴り上げて、脱穀する楽しげなシーンもあるが、のどかなイメージは気持ちよく裏切られる。唱歌や童謡以上に、真面目で深淵な歌詞に引きずられることなく、リズミカルに鍬や鋤を動かす村人たちの姿に、彼らにとって、歌は娯楽ではなく人生の一部なのだと気づかされる。虫の音や風の声が響く風光明媚な村の周辺をインド軍兵士がうろつくシーンのみ、無音になる。監督の意志を感じた。
バーバラが魅力的だ(M・ウルフの素晴らしい演技力!)。守護霊への敬意を表して、うさぎの耳をつけた少女が見つめる、感性豊かな世界。バーバラを取り巻くハードな環境が、彼女を孤立させるほど、世界をとらえる眼差しの透明度は増してゆく。やがて彼女に課せられた〝巨人〟を倒すという使命に秘められた、切実な想いが明かされてからの展開には、子供のように心揺さぶられた。映画のはじまりとおわりで、主人公の顔つきが全然違う思春期特有のみずみずしさに、モル先生同様魅了された。
レティシア監督の幼なじみで、ろう者のサンドリーヌの言葉が印象的だ。親が決めた口語教育を受け、母親との同居生活にも何の疑問も抱かぬ友人に、母の死後の人生について想像すると怖くならないか? と畳みかけた監督に対する、サンドリーヌの答えが、ろう者の価値観をないがしろにしてきた我々聴者の問題点を明らかにする。トルコ出身のろう者アーティスト、レヴェント・ベシュカルデシュの繊細なパフォーマンスから、豊かな希望のサインを受け取ったことを、ずっと忘れずいたい。
ミュージシャンのドキュメンタリー世に多しといえど、錯乱した本作にひそむ美を見落としてはなるまい。フェイクとリアル、混濁と飛躍、喧噪と静寂、引き延ばされた興奮状態と、秘かにこぼれる悲しみが、リレー式に交代していく。ウィーン放送響の指揮者が「彼はドイツやオーストリアの音楽学校に合格しまい」と述べるが、その前後でウィーンの聴衆にむけた攻撃的なピアノの一打は誰にも出せない超絶音だ。9月にリリースされたばかりの新譜『Solo Piano Ⅲ』も必聴の1枚。
稲作農家の労働歌というとS・マンガーノの色香が印象的なイタリア映画「にがい米」(48)あたりが思い出されるが、まさにあれと同じだ。インド東北部、独立運動のさかんなナガ地方のみごとな棚田の風景に、ポリフォニーの波紋。音響が棚田の水面をかすかに揺らす。住民たちは作物の出来ばえを論じるのと同じように自分たちの歌を論じ、歌への偏愛について語るのと同じように日々の作業を語る。歌、稲作、恋愛、家族、共同体が渾然一体となった本作の多声的構造に舌を巻く。
失礼ながらクリス・コロンバスがこんな繊細な企画をプロデュースする才覚を持ち合わせていたのかと、いささか意表を突かれた。「ホーム・アローン」「ハリー・ポッター」両シリーズを代表作に持つ、決して野心的とは言えなかった映画人による瓢簞から駒である。デンマークの新人監督を抜擢し、怪奇幻想趣味を謳歌する。風光明媚な田舎のお伽噺かと思いきや、NY郊外という意外な立地もいい。後半で主人公少女をめぐる心理的・収拾的な説明主義に落ち着いてしまうのが残念だ。
N・フィリベールの傑作「音のない世界で」(92)から年月が経過したが、その衣鉢を継ぐように女性監督がろうコミュニティに関わっていく。音がある/ないという事象が単純なアントニムでないことをあくまで映画的に示した「音のない世界で」と異なり、本作は自殺したろうの友だちに対しては文学的な、ろうコミュニティに対しては社会的な視座に絡めとられている。たとえば手話をする人物を撮るのはなぜこのサイズなのかという思考が、映画の中にもっと積み重ねられてほしい。
ご本人は自分はアーティストではないと言う。エンターテイナーだと。でも、ただの目立ちたがり屋のパフォーマーにしか見えない。チリー・ゴンザレスの演奏をじっくり聴きたいと思った。断片的なライヴ映像の連なりじゃなくて。そちらはCDで間に合うとでも考えたのだろうか。音楽家の記録映画なのにその魅力が伝わってこない気がする。作り手が彼の言動に合わせすぎだと感じた。一緒になって面白がって、批評の眼を忘れたような。それとも最初からこれ、プロモーション映画だった?
インド東北部の農村。その棚田の風景に眼を奪われ。歌声が響く。男と女、若きも老いも。ある時は独りで、ある時は声を合わせて。村の暮らしの中に歌が溶け込んで、そののんびりゆったりの空気が、さあっと観客席を包む。ここにはボリウッド映画から過剰な物語性をすっぱり抜いて、ミュージカル感覚だけを残した、純粋素朴な音楽記録の味があって。村にある大きな教会、峠道を進むインド兵。そこにちらりトゲを含ませ、それでも歌い続けた村人たちの強靱さをも匂わせる。静かな佳品。
夢想の世界に生きる少女がいる。奇矯な振る舞いで孤立している。なぜそんな行動をするのか。最後に明かされるその理由が少し説明不足の感が。それより、彼女が現実へと向かうその契機が、自身が生みだした想像の巨人のひと言というところに違和感を覚え。結局、彼女のことを慮っていた転校生と先生は何だったんだろう。他者という存在を彼女が自覚する。そのことが自閉の呪縛からの解放につながる――だったら納得なのだけど。いっそのことこの映画、転校少女の視点で展開したらと。
言いたいこと、訴えたいことがいっぱい溜まって、ここで洪水のようにあふれ出た。登場人物が多すぎると思う。同じ主張が何度も出てきて少しくどさも感じる。だけどこちらは今までろう者の気持ちを知ろうとしなかった。さほどの関心もなかった。そんな人間が大半のこの世界で、いま、ここに、この人たちがいる、そこを映画で描いた。口話教育、補聴器、人工内耳などへの違和感を初めて知った。そのひりひりきりきりの本音も。もうこちらは受け止めるしかない。ただ彼らに寄り添うしか。