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超絶ギャグか、ブラックコメディか、暴走、狂騒、やけのやんぱち、その全てが不快感を誘ってとても付いていけない。結婚を焦る42歳のマザコン男と、彼がフィリピンで金を払って〝物色〟したアイリーン。日本に連れ帰って以降の展開は、暴力的なワルふざけとしか言いようがなく、流されてばかりの42歳男の不甲斐なさには目を伏せたくなる。いや、フィリピンでの嫁探しツアー自体にも違和感を覚え、アイリーンの家族の描き方も無神経。無責任に面白がればいい? 私はダメだった。
あゝ、もう類似の学園ラブコメを何回観たことか。むろん、大人の観客はほとんど近づきそうもない少女コミックの映画化だけに、少女たちが楽しんで観ればそれで充分なのだが、美女と野獣ならぬ美少女とおたくボクの調子っ外れの恋、英勉(どうしてもエーベンと読んでしまう)監督のリズムのいい演出に引っ張られ、それなりに面白く観た。女子が上位で、男子は後手後手、画面から飛び出してくるアニメキャラの扱いや、友人カップルのお節介も、イヤ味がない。劇中の大人もいい。
確かにおいしそうな料理が出てくるが、8人の女たちのどのキャラも〝色〟が異なるだけで実に薄っぺら、トッピングだけが目立つ上げ底の映画を観ているようで、観終ったとたん、腹ペコに。小泉今日子が住む昭和ふうの日本家屋を梁山泊に見立て、ここに集まってくる年齢もキャリアも違う女たちのエピソードを拾っていくのだが、すでにそれぞれみんな好き勝手に生きていて、それ以上、何をどーしたいの? 男たちを後方に置いての女たちの怪気炎、食欲も性欲もお好きにどうぞ。
1にタイトル、2に歌舞伎町、3、4がなくて5がSNS。ホント「純平、考え直せ」というタイトル、私としては流行語大賞ふうに当分使い回したいくらい気に入っているのだ。〝純平〟の代わりに、どんな固有名詞を入れてもサマになるのだから。それはともかく作品の方は、かつての東映Vシネマふうで、どうも古くさい。その古くさい話に、SNSによる野次馬のメッセージが重なっていくのだが、当のチンピラ純平には届かないというのがミソで、SNSの正体見たり、ムダなやりとり!?
画家新井英樹や古谷実(あと、ここには直接関係ないが佐藤信介によって実写映画化された「アイアムアヒーロー」の花沢健吾)の描く人物たちの言うことや姿は現代においてもっとも強いリアルを実現しており、映画はなんとかこれに遅れぬようついていくのが精一杯だ。作家による徹底の表現行為に見える漫画のやることを妥協の表現であるかもしれない映画が追う、苦しい戦い。しかし「銀の匙」「ヒメアノール」そして本作を手掛けた吉田恵輔は良い挑戦良い戦いをしていると思う。
自閉してるけどそれがあるとき積極的な美少女によって突破され、彼のすばらしさが証明される。それが非リア充の十代男子を勇気づける? ポルノのドラマツルギーだがそれなりに面白い。ちょっと女性に対しての口のききかたや態度が偉そうなのが気になる。スクールカースト下位の男子でも覚醒しはじめたらカースト上位女子を上回るという男尊女卑感性があるのか。いまだに女性からディメンションはひとつ奪われている。ゆうたろうが上白石萌歌を代弁して告白する場面はかなり良い。
女性と食の関係とはディープにしてコア。野郎が腹減って何か食うとかとは違うレベルの話。人間を含む哺乳類の母子はすごい。乳児は母乳しか飲んでないのに何ヶ月も生きて育つ。母親にはそれをつくりだす機能が備わっている。食事し自ら食餌になる。伊丹十三の食についての映画「タンポポ」は授乳の場面で終わる。しかしその文脈に女性を縛りつけてしまうことの問題。本作の沢尻エリカの摂取する感覚、広瀬アリスの食べさせる快感はそこを超えた。あと、小泉今日子の新たな美しさ!
野村周平が古風な感じのチンピラを演じていてそれがなかなか似合ってる。古風といえばチンピラ青年の恋人になるヒロインの柳ゆり菜についてもそう感じるが、それらはイヤな感じではないし、要は非情なるこの平成ラストイヤーにちゃんと対面式のエモーションを持っていてそれを発動できる人間がいると絶滅種に遭遇したような気持ちになることをそうも言う、というか。SNSとやくざ、「鉄砲玉の美学」プラス「電車男」、も面白い。本当ならもっと邪悪な書き込みばかりだろうが。
過酷な人生を歩んできた人間は、目の前の悲惨な出来事に対する比較対象の度合いが、穏やかな人生を歩んできた人間とは明らかに異なる。比較対象がより過酷であればあるほど、目の前の過酷さにくじけないのだ。同様に、本作の冒頭から積み重ねられるように描かれる〝過酷さ〟は、観客にとっての比較対象となる。その〝過酷さ〟が、原作にも描かれている「姥捨」を現代の「楢山節考」として可能にさせている。そして、子を想う〈鬼〉と化してゆく木野花の入魂の役作りは賞賛に値する。
この映画は〝ポジションの映画〟である。それは、彼と彼女の立ち位置(ポジション)によって、その場で心理的なイニシアティブを握っている側を表現しているからだ。例えば、〝階段〟の段差を使った彼と彼女の高低差は、その場の主導権の移ろいを感じさせるし、あるいは、その場に立っていた彼が彼女の隣に座り、ふたりの視線が同じ高さになることで、ふたりの立場も同等になっていることを演出しているように見える。つまり、ポジションがふたりの関係を視覚化しているのである。
料理を盛りつけた皿を撮影するとき、なぜ真上から撮影するのか? それは、皿の形状が丸いことに起因しているからではないかと本作は思わせる。雑貨屋へ行くと、食器は円形に限らないことがわかる。洒落た食事を嗜む女性たちの姿を描いたこの映画では、ユニークなデザインや個性の強いデザインの食器は登場しない。逆に質素でありながら〝料理を際立たせるための皿〟であることが窺える。そして、丸という形状は〈和〉を感じさせ、劇中の満月が女性たちの〈和〉を象徴させているのだ。
ロケを多用することは、その時代を記録することにも繋がる。本作で描かれる〈新宿〉は、まさに〝いま〟を記録したものとして、のちの評者が何かを見出すに違いない。それは限られた〝いま〟を切り取っているからでもある。限定商品の争奪戦が行われるように、人は〝限定〟に弱い。その〝限られた時間〟を主人公と共にするヒロインを演じた、柳ゆり菜の眼力。彼女の眼差しは〝強さ〟を導き、作品全体の空気感をも構築させているだけでなく、終幕の儚さをも際立たせているのである。