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いま地球はヘン。〝ゾン〟なる得体の知れない現象に囲まれた変哲のない町が何を意味するかはともかく、いまやどこでもヘンが日常化している。でも自分に直接的に関係してこない限り、ヘンをやり過ごす。そういう意味ではこの不条理作品はアニメ「ペンギン・ハイウェイ」と通底するものがあり、むろんアニメと違って実写だけにもどかしさもあるが、その分、想像力をかき立てられる。それにしても町の空を無機質に細工しただけで世界のバランスが崩れるとは映画って面白い!!
わっ、もうビックリ!! 何とキュートで魅力的なアニメーションだろう。街にいきなり出没するようになったペンギンの謎と不思議をそのまま楽しんでもおつりがくる面白さだが、謎と不思議をあれこれ推理するのもスリリングで、しかも絵も実に美しい。キーワードはガラクタを宙に投げてペンギンに変えてしまう歯科医院のお姉さんだが、日常にひょいと超自然的非日常が入り込んでの悩ましい展開は、クセになる面白さ。草原に浮かぶ〝海〟に「惑星ソラリス」的な哲学的神秘を連想。
高校の卒業式を終えたばかりの男女5人の青春群像劇で、ホンの1日か2日の話だが、いささか話を盛り込みすぎ。5人それぞれの不安や夢は、一人ひとり見ればそれなりにリアリティがあるが、5人同時に描かれるとヤラセ的なうさん臭さが残り、それが残念だ。彼らはそれまであまり親しくなかったという設定で、ひょんなことで共に行動をするようになるのだが、自分の不安を抱えてのいくつもの行きずり的お節介に素直さが感じられるだけに、話を絞ってほしかった。特に不倫話は余計。
わざと顰蹙を買うような一家や奇妙な連中を登場させ、行き掛かり的に死体を増やし、パワーショベルまで持ち出してセッセと死体の穴埋め作業、いろいろ仕込みも大変だったろうにホント、ご苦労サマ。けれども全く面白くない。これが長篇デビュー作だという阪元監督は、アブナい橋を渡ったつもりなのだろうが、キャラも設定も実にチープで薄っぺら、話題作りのために奇を衒っただけとしか思えん。確かに残酷映画は表現の解放区的な面もあるが、表現というより演出が大袈裟なだけ。
本作と、これに前日譚か続篇として接続しうる鈴木卓爾監督の「ポッポー町の人々」(12)、「ジョギング渡り鳥」(15)、鈴木氏出演の黒川幸則監督作品「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」(16)などは近年もっとも刺激的な日本映画だ。そこで描かれた世界の変質は専ら出演者のフィジカルで表現されていたが「ゾン~」では彼らがスタッフにもなったことでその存在は映像効果や美術に憑依し、人物らを包みかつ破られるべき世界=映画が出現した。その素晴しさディケイドベスト級。
アニメというものがおおきいおともだちのためのソフィスティケイトされたポルノのように感じられてノレないことが多いが、本作では主人公少年がさんざん憧れのおねえさん(蒼井優が推定身長百七十センチ超で胸の豊満な女性に変身してる)の乳房を話題にするにもかかわらずそれがきっちり精通前の少年の不能的感性の物語としてつくられており邪念なくセンスオブワンダー冒険を追って観られた。レムとタルコフスキーの〝ソラリス〟、「ゾンからのメッセージ」に通じるものがあった。
良い話ねらいで悪ぶらず陰惨の突出もないが、その抑制が逆に、気を抜けばひたすらに荒廃していく生の気配を出していることはひとつの見甲斐。その黒々とした感じにたちずさむ若者の輪郭は明瞭かつ普遍的で高崎も世界だ。奥野瑛太と川瀬陽太の下で一発イリーガル&デンジャージョブをきめてその報酬でヒロインを助けようとする萩原利久が突っ込む直前、嗚呼、半日くらいまえは楽しかったぁと回想するイメージがちゃんと過去場面の初めて見せる彼から目線のカットなのも良かった。
元気があってよい。島田角栄監督作「家族ロック」を連想。あるいは森田芳光「家族ゲーム」と石井聰互「逆噴射家族」から小林勇貴「全員死刑」を繋ぐ迷惑なミッシングリンクか。ただガンガン殺って血と内臓ドバドバはいいとして、そのインフレに対する戦略が弱いか。早々にギャグの方向に舵を切っているがもっと殺傷アクション描写を痛く重くエグくしたほうが映画のパワーは増すはず。餅とマンナンライフの蒟蒻畑を大量におじいさん(名優)に与えるあたりの酷さとおかしさ。
〈ゾン〉の向こう側はどうなっているのか? この映画は〈ゾン〉の内側を描いているのだが、どうやらかつて〈ゾン〉は存在しなかったようなのだ。現実の世界においても向こう側へと行けない区域が存在する。我々は〝境界〟の外側で暮らしているが、いつか何かの選別や選択によって我々が〝境界〟の内側で暮らす社会になりえる可能性へ警鐘を鳴らしているようにも見える。あちら側とこちら側を区切るのは地図上の単なる〝線〟であって、本当は何もないのだと本作は言わんばかりなのだ。
〝少年の手描き研究ノート〟という面倒な作画を実践している本作。ノートには〝お姉さんのおっぱい〟に関する考察が確認できるが、〝胸の揺れ〟に対する作画も丁寧に実践されている。〈メタモルフォーゼ〉は本作の重要な要素だが、お姉さんが物体の変形・変態の鍵を握ることは〝お姉さんのおっぱい〟と無縁ではない。そして夏であるため、お姉さんが薄着であることや水の形状変化とも無縁ではない。つまり、形の定まらない〝お姉さんのおっぱい〟は単なるスケベ描写ではないのである。
高崎市内を流れる川は利根川と合流し、やがてその支流は江戸川へと分岐してゆく。その先にあるのは〈東京〉だ。いくつのも分岐点を通過しながら大海へと向かう河川。その河原を歩く、高校を卒業したばかりの若者たち。彼らは有限の時の流れの中で、夜の川岸にて花火に興じるのだ。終盤、彼らは高台からその川を見渡すこととなる。本作には佐藤玲や萩原利久ら役者たちの〝有限の時〟も映像の中に刻み付けられている。そのため、川の流れが人生そのものを象徴しているように見えるのだ。
世界で同時多発的に疑似家族的な人間関係を描く作品が製作されている反動として、本作は血縁による人間関係を起点とした歪みが描かれている。しかし、躊躇ない暴力描写を見せつけた「ハングマンズ・ノット」の監督が、そう易々と〈家族愛〉に帰着させる訳もない。重要なのは、半径5メートル以内の狭い範囲で起こった凄惨な事件が、世間から誤認され、隣人さえも実体を正確に把握していない点にある。ある種の〝無関心〟こそが、この世界の混沌の根源であるようにも見えるからだ。