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さすが「最強のふたり」のトレダノ&ナカシュ。古城での豪華な結婚式を裏から支える給仕やスタッフやコックたちは、東欧系、アラブ系、ブラック・アフリカ系と多彩な顔ぶれである。今年のフランス映画を代表するような娯楽作のなかでも、ちゃんとダイバーシティが確保されている。物語は誰でも楽しめる人生喜劇であり、マイノリティや人種問題が話題になることがないだけに、彼らの「顔」がスクリーンに登場し、フランス人の多様さが映像的に示されることが重要なのだ。
深夜にひとりで観たいB級スリラー。妊娠して出産日が迫っているときに、絶対に遭遇したくないできごとが次々に起きる。途中まで夜の闖入者の顔を見せない演出、妊婦の白いワンピースが血だらけになっていく衣裳、懐中電灯を使って闇に隠れる恐怖を際だたせる場面など、監督と撮影チームによる映像設計が良い。帝王切開への嫌悪感が、妊婦のお腹に突き立てられる犯人のナイフにつながり、白いシートで覆われたプールのラストシーンまで、イメージの連環で見せ切った手腕も見事。
五人の難病を抱える子どもの日常を撮ったドキュメンタリー映画。子どもという他者の目線から家庭、学校、病院の姿が鮮やかに浮かびあがる。しかもナレーションや通常の意味でのインタビューを使わずに、子どもたちがカメラの前で私語りをし、モノローグで自分の考えや感情を吐露しているかのように撮影・編集をしている。子どもたちが発する言葉の力には驚くばかり。難病という現実を小さい体で受け入れ、ポジティブに生きるあり方は、まさにわたしたち大人が学びたいことだ。
豊富なフッテージとインタビューで、ラ・チャナというフラメンコ・ダンサーの生涯を振り返る。これまでもヒターノ(スペイン・ジプシー)における貧困や差別の問題を扱った作品はあったと思う。だが、ジプシーの家系において女性蔑視が根強くあり、高名なダンサーまでもが家庭内では夫に支配され、家庭内暴力にさらされた事実を明るみに出した例は少ないのでは。ラストの公演シーンでは、人生における苦難を乗り越えてきた女性の深みをたたえるパフォーマンスに心動かされた。
結婚式や告別式などは、つつがない進行が当たり前。粗相があってはならないイベント。よって、結婚式をめぐるトラブルで爆笑を誘うこの物語は、形式的儀式を重視する日本人には特にウケがいいのでは。ましてや社会問題をキレのあるシャレにして、独特のスピード感で観客の心を摑むトレダノとナカシュだもの。期待値も自ずと高くなる。が、持ち前のサービス精神に足を掬われたか。詰め込んだ話に途切れることのない会話、会話。人種問題や階級社会を風刺するも、芯のない笑劇に。残念。
出産を控え、交通事故で補聴器なしでは音が聴こえなくなった女性が、正体不明の女性に襲われる。そんなスリラー映画かと思いきや、話は想像を超えていた。あろうことか、謎の犯人は陣痛促進剤オキシトシンを妊婦に投与したのだ!? ということは襲った目的は異常な状況下で出産させることだったのか? そうだとすればかなり倒錯したホラーである。補聴器が壊れて、視覚のみならず、音が無くなることによる恐怖の演出効果もあり、不気味さはいや増すが、なんとも後味が悪い。
「未来の食卓」「ちいさな哲学者たち」「世界の果ての通学路」……、フランスはこの作品も含め児童についての、優れた記録映画を多々生んでいる。背景にあるのは揺るぎない自由意識ではないか。幼いのに難病を抱えて可哀想といった目線はない。医師は子どもに病名を伝え、一人の患者として向き合う。子どもたちが発する言葉も胸に響く。一人の女の子の姉の言う「子どもはやりたいことをするのが一番いいの。もっと命を信じなきゃ」は子どもが発する、大人が肝に銘じるべき金言だ。
確かに記録されているのは、フラメンコ・ダンサーのラ・チャナである。しかし舞踊家の仕事ぶりだけの記録ではなく、彼女の半生記と受け止めた。1946年生まれの、椅子に腰掛けてフラメンコのステップを踏むダンサーの肉体が発する情熱、女性の立場や老い、キャリアの絶頂期での引退と再起には、特別な才能に恵まれた女性だけのものでなく、普遍の説得力がある。私的な部分、特に不幸な結婚生活を涙声で語るくだりまで丁寧に見せ、結果、女性としての魅力が浮き彫りになった。
コメディとしてはギャグレベルはそれほど高くなく、キャラクターもいまいち弱いのだが、何ひとつ計画通りにいかず先行きのわからない結婚式に寄り添うアヴィシャイ・コーエンの劇伴がぴったり。ジャズのセッション風のアレンジが生もののライブ感を煽る。クライマックスで流れるウェディングソングもいい。一瞬の花火カットはどんなシチュエイションであっても美しいものは美しいことを証明すると同時に、それが美しいほど、前後の文脈から切り離された演出の残酷さを物語っている。
謎の女が最強すぎる。その戦闘力は素人の一般女性の限界をはるかに超えており、どう考えてもヒロインに勝ち目がなさそうに見える時点でアウト。どんなに頑張って応戦してもヤラセっぽく思えてしまう。そもそも女の狂気も出オチ感が強く、筋書き通りの展開が否めない。その点リメイク元の「屋敷女」で同じ役を演じたベアトリス・ダルの説得力は半端なかった。ヒロインの耳が聞こえない設定も音楽効果的な印象に留まり、失聴した状態であることにほとんど意味が感じられなかった。
子どもの姿で画面に現れる少年少女たち。難病を抱えた彼らは小さな体で想像を絶するハードな毎日を生きている。しかしその眩しい笑顔と、子どもたち自身の口から語られる前向きな言葉に、「かわいそう」とか「立派」といった感情はまるで当てはまらない。ましてや涙はもっと似合わない。彼らが知っているのは自分自身と生まれてきた世界を愛すること。そのシンプルなことがどれだけ難しいか――。自分の運命を受け入れて目の前の人生を楽しもうとする生き様は本当にかっこいい。
波乱の人生を体現するかのようなラ・チャナの激しいパフォーマンスが圧巻。神業的なビートを刻む超絶技巧の足さばきは自らの体を使って奏でる楽器のようでもある。70歳になった彼女は椅子に座ったままステージに上がるが、ステップを踏む足先も上半身の動きも全く衰えておらず、カットを割れば普通に踊っているんじゃないかと思えるほどだ。否、それはむしろ立って動き回らずとも表現できるという事実を示しているのではないか。そこにフラメンコの新しい可能性を見たように思う。