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タイトルこそ挑発的だが、昨年の大林監督「花筐」と根っ子の部分で共通する青春群像劇の秀作だ。物語の軸になっているのは、さまざまな過去を持つ女力士たちで、革命団〝ギロチン社〟の面々は狂言回しに近いが、関東大震災直後という時代の空気の中での両者のすれ違いを、半端ではない登場人物の、半端ではないエピソードで繋げ、ガツンとくる。その割に重苦しさは控えめで、この辺りの脚本・演出もみごと。字幕やナレーションを使って情報を補足、いささか駆け足気味だが納得だ。
部屋や家に出没する幽霊といえば、外国のゴシック・ホラーや「残穢 住んではいけない部屋」を持ち出すまでもなく、怨念やら未練やらのおどろおどろしい話が付いて回るものだが、その点この映画の、単身者向けの賃貸アパートに現れる幽霊たちは、万事が〝安・近・短〟で友だち感覚、幽霊もずいぶん軽くなったものだ。というか、命の軽さ? こういう脚本がTSUTAYAのオリジナル企画に入賞し、映画化されるのもご時勢なのだろうが、私には思いつきレベルの幼稚な〝物件〟だ。
〝美〟がこんなに退屈なものとは!! まあね、絵ハガキさながらの絶景美を数百カットも立て続けに見せられたら、どれがどれやら途中で飽きてくるのも当然で、瀬戸内寂聴の本のタイトルではないけれども、〝美は乱調にあり〟ということばをしみじみ実感したり。日本人の精神とやらも何やらキナ臭い響きがあり、この作品の製作意図に危険な動きも感じてしまう。撮影に協力したカメラマンや各地の関係者には申し訳ないが、変哲もない光景や人々の営みをひたすら恋しく思いながら観た私。
車椅子のヒロインを演じている知英が、その役よりも自分の女優ぶりを強調しているのが何とも鼻につく。カメラがまたブロマイドふうのアップ映像で完璧メイクの彼女のご機嫌とり。チラシには〝青春映画〟とあるが、不運な女王サマがスネて甘えているというイメージで、幼馴染みの相手役、稲葉友もずっと年下の印象。ヒロインが音楽を取り戻したことで前向きな一歩を、という話だが、一事が万事、ムリヤリ感がして、お説教がましい台詞もチープ。ついでに言えばタイトルも何かヘン。
お話をつくり、語ることの強く大きな意志を感じる映画だった。しかし、命革めることの流行らないいまの時代、これをどう広めていけばよいのか……序盤の女相撲興行の場面で女力士=女優たちがその肉体の力感を画面にあふれさせたあとは一気にノレて観れたが、それが鍵だろうか。私もまたこの映画のなかの男たちと同じく、血を吐くように〝強くなりたい!〟と表明する女性の姿をいくつかの映画の中で目撃したことによってハッとして、そのことで何とか生きてきたのだと思い出した。
オダギリジョーのどう見ても一般社会で穏当に生きてるように見えない存在感、マージナル感は、そのへんでなんだか怪しいことをしてる男だったり、「プラスティック・シティ」「エルネスト」みたいな諸作において外国でディープな闘いをするアジア人の男だったりしたが本作はそれらとも違う新たな境界線、前衛を彼とともにつくった。主演池田エライザはこんなふうにダルそうにしてるほうが可愛さが底光りする。オダギリ、渋川清彦が池田をまだ女として見ない大人の男なのも良い。
きれいな風景、邪悪な意図。映像による目隠しを行なわなければ語れぬ、圧殺的な偽りの平和を空々しくうたう。「菊とギロチン」でアナーキスト中濱鐵役をやり、俺がこんなこと言っても、と涙しながら朝鮮人女力士に関東大震災時の朝鮮人虐殺を詫びる場面を演じた東出昌大を好ましく思ったが、本作で寺田寅彦や小泉八雲になりかわってその日本賛歌を読み、虫の声を左脳で聞くのは日本人だけ、スゴイ!みたいなナレーションを猫撫で声でする東出氏はいやらしかった。今年最低の一本。
かなり良い。映画や漫画や小説で、つまり「ジュラシック・ワールド」から「高慢と偏見」に至る様々な物語の男女が初めの印象最悪でありながら通じ合い触発しあうパートナーとなること、それを自覚する直前やわかりはじめたときのツンデレ、という普遍性の面白さが本作にもありそれが説教臭を消臭してくれてる。知英が車椅子に乗るカットの長さとその切実さは画期。ああブコウスキー俺も女好きー、みたいな自作曲をがなり、知英が心を許すまで車椅子を押さなかった稲葉友が良い。
すべてのカットに「これを撮りたい!」という瀬々敬久監督の魂の叫びを感じさせる。その姿勢に牽引されたであろうスタッフ・キャストの熱も、当然のことながらスクリーンから溢れ出ている。世の不寛容さを伴った大正から昭和へと向かう端境期。その時代性が現在とシンクロする点に、本作を〝いま観る〟意義がある。女相撲を通して人間としての強さと生命力を身につけてゆく花菊の成長を眼差しと佇まいで表現した木竜麻生、その対となる韓英恵の演技アプローチが何よりも素晴らしい。
オダギリジョーという役者は、なぜか〈裏社会〉が似合う。しかも、〝どっぷり〟ではなく〝ふわっと〟足を突っ込んでいるような印象を不思議と与えるのだ。このどちらでもない感じが、あの世とこの世を結ぶキャラクターに合致している点が秀逸。劇中に登場する〝橋〟はその象徴とも言える。本作はまるで〈プロローグ〉のような作りになっているだけに、願わくば毎回大物俳優をゲストに呼ぶことでシリーズ化させる、あるいはテレビドラマ化させることに向いている企画のように思える。
日本各地の風景を気の遠くなるような撮影の積み重ねによって映し出した本作。その臨場感は3D体験に近似し、家庭用のモニターではなく映画館の大きなスクリーンでの鑑賞を意図しているように見える。8年の歳月をかけた映像が美しいのはもちろんのことながら、その歳月は急速な撮影機器・撮影素材の変遷をも切り取って見せている。日本という国が持つ悠久の精神をナレーションで語る表層的な表現はともかく、映像をアーカイブとして保存することの意味と意義について考えるに至る。
本作ではワンカットによる長回しの撮影が多用されている。その演出は、役者の演技をカットで積み重ねることで表現するのではなく、連続性を持つ、あるいは継続させることで、ある種の感情を引き出すことを目的としているように見える。例えばそれは、演技によって生み出される〝作られた感情〟と、自然体が生み出す〝素の感情〟の境界を曖昧にさせる効果を生む。知英は車椅子を押しながらの演技ゆえ、スクリーンに映し出される〝感情〟が自然に見えるのは尚更なのではないだろうか。