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人間と擬人化した猫の話といえば、アニメ化された大島弓子原作の「綿の国星」があるが、今回は似た設定を実写化、これがどうにも歯が浮くような作品で、途中で逃げ出したくなった。擬人化した猫たちが集まって、自分たちを振り回す人間たちにあれこれ言うくだりなど、舞台劇ならまだしも、文化祭のイベントが紛れ込んだよう。落ち目のヒロイン役の沢尻エリカもプラスチック人形並みにツルンとしていて、その猫撫で声もシラジラしい。脚本、演出の変化球がスッポ抜けしたような作品だ。
電車内でも歩行中でもケイタイ人種がわがもの顔の現代で、あらためて不条理とか、見えないシステムとか言われると、いささか戸惑ってしまうが、ちょっと立ち止まって足元を見直すという意味で、この作品、意義がある。が、脚本がかなり頭ごなしで、どの人物も記号並み、特に主人公は摑みどころがない。時に無機質、時にシュール、時に生活感ある背景もとりとめがなく、笑いの欠如もつらいものがある。でもこういうことを言うこと自体、映画というシステムに呪縛されている?
おお、「地獄の黙示録」の石井岳龍監督版だっ! フトドキでふざけていて不真面目で不埒千万、けれども狂態、狂騒のあちこちに、世界の現実や世間のデタラメさが透けて見え、もう面白いったらない。面白さにつられて町田康の原作を読んだら、これまたとんでもなく自由奔放で、宮藤官九郎の脚本も原作にノリノリ。演技陣の真面目な怪演もワクワクさせ、各キャラのナリフリも超リアリズムでドギモを抜く。天下分け目のヤラセの大暴走に、猿まで加わっての大迷走。北川景子のキャラもいい。
理想を求めず何が外交か、と不退転の決意で米側と交渉する主人公の覚悟は伝わってくるが、いまこの人物を描くこと自体、間接的に日本政府の〝言い訳〟を代弁しているような。いや、そこまで勘繰る必要はないのかもしれないが、制作はNHK、何やら裏があるような気も。西岡琢也の脚本は、米側だけではなく外務省にもいくつもの障害を置き、沖縄の人たちの立場で闘う主人公の公私に密着するが、逆に考えれば基地県沖縄の誕生秘話、主人公はリッパでも、どうもいまいち腑に落ちない。
これからの日本は戦後すぐの社会における復員兵やアメリカの退役軍人のような元アイドルという存在を世の中に大量に抱え込むだろう。自意識の戦場のヴェテランのPTSDは坂下雄一郎監督「ピンカートンに会いにいく」でも描かれた題材。本作は大九明子監督「勝手にふるえてろ」に匹敵、あるいは様々な仕掛けという意味ではそれを凌駕する面白い語り口の女性映画だがスタイルの突出がやや切実さを減じている気がする。水曜日のカンパネラコムアイが素晴しい。もっと映画出るべし。
単に抽象への憧れなら認めたくなかったが、カフカの本質である、他人こそが自分の知りえぬ自分の存在意義と進路を知りそれを差配することへの怖れがあった。蟲惑的な洗濯おばさん川上史津子をはじめ女性が皆良い。エロくて。カフカ主人公が負う過負荷はエロスに救いを求めたくなるようなストレス。そこでの興味や秘密、目配せはエロく、カフカはピンク映画になりうる。ウェルズ「審判」、ストローブ=ユイレ「階級関係 アメリカ」、万田邦敏「大回転」を観たとき同様そう思った。
永瀬正敏が大臼延珍という猿神を演じ、なおかつナレーションをしていることがネタバレ禁止でなぜ? と思うがたしかにそれは脚本宮藤官九郎独自の工夫であるらしく大きな意味があると思える。しかしそんなにうまく機能していないというか、それについて観た者が話さないと機能しないと思うのでその話をする。パンクがオリジナルのロックの活気リバイバル戦略としてチンピラさを意識的に演じたメタなものなのとこの物語全体が登場人物を突き放した語り手に語られてい…字数が尽きた。
井浦新が演じる外交官千葉一夫は現代アメリカ映画のなかで作り直された三八式歩兵銃のようだ。「プライベート・ライアン」のブルータルでハードな銃撃音以降の戦争映画のモード変化は「父親たちの星条旗」「ハクソー・リッジ」に見る如く日本側兵器の威力をも引き上げた。パーンではなくズギャオーン!。だがこれこそ当事者の切迫かつ表現の可能性、なされるべき劇化だ。主人公そして本作自体の戦後沖縄に関する義憤、歴史周知の意図、自ら一個の脅威となりたい想いを良いと思う。
「心中天網島」や「ドッグヴィル」など〝舞台的なもの〟を映画に変換してきたという歴史は確かに古今東西ある。そして終幕に至るストーリーの顚末を考察すれば、なぜこのような構成にしたのかも理解できる。だが、劇中番組やアニメ表現などによっても織りなされる実験性が、2010年代の映画として適ったものであるかは議論すべき点だと思える。沢尻エリカはかつてERIKA名義やAmane Kaoru名義でCDを出していたが、その確かな歌唱力を何気ない場面で確認できる。
日本に舞台を置き換えてカフカの小説を翻案した本作には、不条理な状況が繰り返し提示される。主人公はその不条理に戸惑うのだが、〝裁かれるべき者が裁かれることのない〟我々の棲む現実社会の方がより不条理なのではないかと思わせる。原作が執筆されて約百年が経過するが、回り回って時代や気運が過去に戻っているという可能性に絶望させられる。映像から色彩を抜いたりブルー系に寄せたりすることで善悪の曖昧さを表現しながら、あるポイントで色を強調させている点も一興。
〈映画〉とは興行でもある、というのが個人的な考え方である。そして、リュミエールの作品群を映画誕生とする以上、スクリーンに投影された映像を不特定多数の人間が同時に鑑賞するものを〈映画〉と呼びたい。そういう意味で、ネット配信会社が興行のリスクを負うことの意義を、某Netflixには本作から再考いただきたいと願う。怒濤の情報量を持つ映像は縦横無尽なカメラを伴い、嬉々として演じる役者たちを捉えている至福。石井岳龍ではなく、斯様な石井聰亙を僕は観たかったのだ!
「返してもらう」のではなく「取り戻す」というニュアンスの違いにこだわることで、未来への道となる礎をより強固なものにする。人を育て、次の世代にバトンを渡すことについて、主人公は「忘れられては困るんです」と語る。しかし悪い意味で〝忘れず〟そして未だ〝続いている〟という現状に対しては憂うに至る。意義ある内容や完成度の高さとは関係なく、また再編集されているとはいえ元来テレビの再現ドラマである本作を〈映画〉として評価するのは、残念ながら個人的には難しい。