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ある日のフットボールスタジアムの光景から、人種や格差、教育とビジネスへ現代アメリカの光と影が浮き彫りになってゆくダイナミズム!観察した映像の断片を、編集作業を通して積み重ね、抽象性へと辿り着く、想田監督の唯一無二の手腕が発揮されている。監督率いる総勢17人の映画作家たちが捉える、カメラを回していなければ素通りしてしまいそうな被写体のドラマも、複合的な分、従来の観察映画よりバラエティ豊かな印象だ。神出鬼没の猫のようなスリルが物足りない気もして残念。
103歳の老女の顔を、右から左から上に下にと嘗め回すような、執念深い冒頭のカメラワークに「(ゲッベルスと)一緒に働いたという言い方はしたくない」という彼女の言葉の真偽に迫ろうという4人の監督の気迫が溢れる。ナチス党入党時のことを振り返る彼女の顔を、下から煽るように捕らえた挑戦的なカメラは「神は存在しない。だけど悪魔は存在するわ」と遠い目をして呟く彼女には優しい。ドイツ国民としての責任を率直に認める彼女の罪は、プロパガンダ相と同等ではないと思う。
「父の秘密」「或る終焉」に続き本作でも監督のまなざしは、少女と呼ぶには十分女の、しかし女と言うには些か可憐な娘たちの生命力に注がれる(ゆえに原題も「アブリルの娘」なのだろう)。それは、ある物事に対して、物語を牽引するほど執着するわりに、対象への興味を失った後の、実にはかない大人たちとは対照的だ。過去2作から引きずってきた蟠りが、本作のラストシーンで晴らされた気分。どんな理不尽に晒されても生きていくことを、フランコ監督は描いているのではないだろうか。
ハンブルクでリフレッシュして、帰国したヒロイン・ヨンヒが訪れる、港町カンヌンの街角にて。喫茶店の外で煙草を吸いながら「見えますか? 私の心が」と口ずさむヨンヒに堪らず、エモーショナルに寄っていくカメラ。あるいはまた。恋人たちの甘やかなケンカに居たたまれずひとり外に出たヨンヒが、戯れに葉牡丹に口づける時、カメラもそっと彼女に近づくのだ、キスするように。やさしいカメラワークは監督の愛そのもの。ホン・サンスのキム・ミニ愛に溢れた一作は冬の海も穏やかだ。
バルセロナのカンプ・ノウなど巨大スタジアムでの撮影に親しむ筆者には、本作の全カットが同僚の撮ってきたラッシュを見る気分だ。このスケールがプロではなく、大学スポーツという点が米国らしい。ただし周辺取材の充実に比べて中心部の画が物足りない。核心の秘境にもっと迫るべきでは? 試合直前のロッカールーム、監督室、審判の控室、ドーピングルームでもいい。そこまで撮るのかという禁断の驚きが欲しいし、それは想田監督の「観察」という概念とも矛盾しないはずだ。
103歳老女の無数に刻まれた皺を強調するかのように、作り手はコントラストを上げたやや作為的な画調を選択する。ナチ中枢で秘書を務めた女性の述懐を聴いた筆者がこの話者に激しい軽蔑の念を抱いたとしたら、それは過剰反応だろうか。彼女は「自分は何も知らない小娘だった」と度々弁解するが、「知ろうとしなかったのは浅はかだった」とも認める。本作の存在意義は、この無自覚な加担者の浅はかさを、未来への教訓として記憶することに尽きる。私たちがこの老女にならぬために。
前作「或る終焉」のショッキングなラストは、あまりにもこれ見よがしで品に欠けていた。今回もまた、娘たちよりも肉体的魅力を備える母親の欲望の暴走で、見る者を啞然とさせるが、リアリティショーのように極端な展開ゆえ、単に凄ネタとして消費されかねない。個々のシーンの強度から見て、M・フランコ監督のたぐい稀な才能は間違いない。ただこの大器が真の傑作を撮るのは、まだこれからのことかもしれない。それは、観客を脅かしてやろうという野心から卒業した時だ。
不倫愛を堂々と宣言し、韓国内で顰蹙を買ったホン・サンスとキム・ミニだが、愛の真っ最中に早くもこんな破局後の残滓を見つめた映画を作っている。進んで孤独の中に引きこもり、悲しみをもてあそぶ甘美さよ……。ひとけのない水辺がこの甘美な自虐を包み込む。地獄行の熱狂もなく、復活の胎動もなく。いや、わずかな胎動はある。男との再会と口論は昔の仲間たちの立ち会う中で起こる。この大っぴらさにはむしろ胎動を覆い隠す効果がある。騒ぎの陰で彼女の未来が生まれている。
10万人入るスタジアム。その内外で蠢く人々を望遠鏡で覗き、興味を惹いた者をじっと眺めている感覚。伝統と信仰を重んじる土地。それゆえか住民は善人風。その合間をトランプの宣伝カーが縫って走る。フットボール試合のお祭り騒ぎ。その裏に格差や差別を思わせるスケッチもはさんで。アメリカという巨大な国。それを丸ごと呑みこんだような作り。けど目を凝らせば、その国情に対する批評がちらほら。そうかと頭では納得。が、どこか心に響かない。少し計算でこしらえた気がして。
こういう映画を観ると、日本でもと思ってしまう。戦争の時代、軍人以外の国民はみな被害者だったって映画が多くて。「この世界の片隅で」みたいな。ポムゼルさんにとってあの時代は日常で仕事で生活だった。当たり前に生きていて、無意識にナチスに加担していた。戦争ってそういうことで、だから怖いってことを、彼女のシワだらけの顔が語って。独国民は終戦時に強制収容所の映像を義務的に見せられたのか。加害者として自覚させられたんだ。じゃ、日本は? といろいろ考えさせられて。
いやはやこの頃、未成熟な母親が登場の映画が多くて。ここにも邦題通りのお母さんが。実の娘から赤ん坊と夫を奪うんだから凄まじい。この女主人公をサスペンスとかホラーで描かず、普通のドラマ感覚で演出したところ、そこが面白い。けど、この女の性格にもう少しニュアンスとか、裏打ちもほしく……待てよ。母親がこんな無茶をしたから、娘が自立できたんだ。ひょっとしたら、すべては彼女の作戦? 「或る終焉」の監督だからなあ。そんな裏の企みがあってもおかしくない。はたして。
ハンブルクの街をユーウツそうな面持ちでぶらぶら。カンスンの横丁では旧友たちと取りとめもないお喋り。いきなり怒りだしてみんなをたじろがせる。そんなヒロインを見つめるキャメラの乾いた視線。例によってのホン・サンス・スタイル。海辺のホテル。その一室。意味もなく窓を拭いている男がいて、誰もそれに気づかぬ不思議な画面が妙に残って。やがて映画監督の登場。ヒロインとの不倫の愛、その意義を滔々と語る。なんだ結局、ホン監督の自己弁明映画だったのかとちと鼻白んで。