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専業主婦が消えてしまった三世代同居の家の中は、家事全般が滞り、日常がメチャクチャ。おまけにアワヤ火事のボヤ騒ぎまで。山田監督はそんな家族の混乱状態を描いて笑いをとる。まるで家事ロボットが故障して不便で困った的な扱いで、すごく違和感を覚える。彼女も大事な家族なのに。このシリーズが取り上げるテーマは、1作目の熟年離婚も、続く無縁社会もすでに社会現象化したテーマではあったが、今回はいくらなんでも大時代的。俳優陣のアンサンブル演技は面白いのだが。
前作の「淵に立つ」がまさにそうだったが、深田監督は異分子を好んで描く。インドネシアを舞台にした今回の異分子は、海から現れた無口で静かな男。男は何もせず、でもじっと何かを待っている。映画はこの異分子を軸にして、日本からやってきた若い娘や地元の青年たちのエピソードを穏やかに描いていくが、天災や運命に対するアジア人特有の受け入れ方などにも触れての終盤は、いささか強引、傲慢で、しかも解釈はご自由に!? 森羅万象ふうな異分子という野心は買うがズルくない?
毎回、人物たちを迷走、暴走させている福田監督が、よもやハリウッド映画の焼き直しのラブ・コメを撮るとは思わなかったが、それはともかく、あまりに他愛なさすぎて、あれこれ言う気も起こらない。一日で記憶がチャラになる彼女と、そんな彼女に恋をしたチャラ男。長澤まさみも山田孝之も。休暇で遊びに来たハワイでちょっと映画に出ちゃいました的な演技で、毒にもクスリにもならない。ま、脚本のせいでもあるのだろうが。この映画からハワイを取ったら何が残るのだろう。
百々新の撮影による神秘的な山々の俯瞰映像は、狙いとしては〝神の目線〟なのだろうが、一方でその神の目線に便乗して、高みから一方的に万物の輪廻転生を説く河瀨監督の目線が感じられ、それがかなりうっとうしい。唐突に日常的な場所から離され、自然との共存や運命の巡り合わせを数百年単位で語られても、摑みどころもなく、ましてや共感もできず。人物関係やエピソードがパズルめいているのも、分かる人さえ分かればいい的な作家の驕りが感じられる。あ、驕るのは自由でした。
山田洋次イズバック!女性の労働問題映画!そして夏川結衣ライズアゲイン!「東京物語」に由来しながらその拒否反応のように重ねられた「家族はつらいよ」シリーズでようやく固有の見応えを感じさせた。ずっと夏川結衣を石井隆監督作「夜がまた来る」の〝名美〟だとも思ってきたからこのシリーズの彼女を観ることはつらかったよ。だが報われた。あの〝名美〟の情念はどこにいった?それへの妻夫木くんの回答は、労働と意識もされない家事労働に埋没した、と。しかし薔薇は咲いた。
したたかにしつこく深田晃司監督は「テオレマ」の如き異人来訪をまたも描く。過去作「歓待」「淵に立つ」と本作をくくってそう言うがそうでありつつ違うものをつくり明らかに発展していることが良い。超能力者か(比喩でなく)神か悪魔か、ディーン・フジオカは深田映画最強異人。だが彼と関わる若者たちは自然体で彼に圧倒されない。人物像の成長。奇蹟にすがらずそれを契機程度に捉えることと曖昧さを持続することの強さ(特に太賀)。彼ら自身も奇蹟だと示唆して映画は終わる。
面白かったし、長澤まさみの伸びやかな白い脚や肩ひもの日焼け跡がうっすら見える胸乳まわりにこちらの網膜と脳髄を心地よく灼かれる思いもし、彼女単体の魅力、ことに健康的でさわやかな色気は元ネタ映画のドリュー・バリモアを超え、山田孝之もアダム・サンドラー路線の存在感を出している、と思うものの映画全体の構想やキメの場面などが原作「50回目のファースト・キス」を一歩も出ておらず、くすぐりもウザい。これは字幕読むのが面倒な人のための抄訳的翻案ではないか。
日本で最もやっかまれている映画監督河瀨直美監督の最新作は昨年「光」をカンヌ映画祭に出品した際に、ジュリエット・ビノシュやプロデューサーと出会い、そこから実現させた企画だという。仕事速っ!しかしこれは素晴しい。河瀨直美へのやっかみとは氏への国際的評価をどう受け取っていいのかわからない者(私もそうだ)の側にある俗っぽさと非俗っぽさの均衡の逸失に由来するが、こういう、エグザイルともコラボしてバリバリ映画をつくるところに来ればもはやそれは粉砕される。
今作では様々な〝選択〟が描かれている。仕事、老後、趣味、さらには、墓地の場所やお金の使い道、味方につくべきは父親の側か母親の側か、はたまた鰻は並か特上かという細部に至る〝選択〟が描かれているのだ。本作のタイトルデザインを担当しているのは横尾忠則。彼の代表作〈Y字路〉を想起させる冒頭の三叉路は〝選択〟を暗示させる〈わかれ路〉のように見える。そして〈Y字路〉が横尾の故郷の風景から着想を得たことと、家族の暮らす家が三叉路にあることの意味を見出すのだ。
ディーン・フジオカが体現するのは母なる海、つまり大自然だ。彼は何の前触れもなく海の彼方からやって来るが、それは何の前触れもなくやって来る津波にも似ている。自然は人を癒すが、時に人の命を奪うものでもある。そこに意図などないという穏やかさを、ディーンの佇まいが雄弁に語っている。また劇中では、窓や扉、トーチカ、ビデオカメラなどにより画面の中にもうひとつの画面を構成。「捜索者」(56)のような画作りは、〝何かを捜す〟人たちの佇まいと同期しているのだ。
映画の中で長澤まさみが1日で記憶を失くすことと相反するように、観客は過去作のことを忘れていないという構造を持っている。つまり、最初からストーリーのわかっている本作においては〝同じことを繰り返す〟ことこそが重要なのだ。そのことが、ヒロインを取り巻く周囲の〈変化〉や描き方の〈変化〉をも重要にさせている。山田孝之のマシンガントークはもちろん、ハリウッド版を踏襲させた大賀の演技アプローチが秀逸。季節の変化を考慮してハワイロケを踏襲した英断も評価したい。
河瀨直美の特殊な演出のもと、奈良の山奥にいてもジュリエット・ビノシュはジュリエット・ビノシュであるという女優の矜持。〝トンネルを抜ける〟描写を積み重ねることで、あちら側とこちら側という境界を印象付けながら、ドローン撮影による実景が、人の介入を拒み、人を寄せ付けない迷宮のように山嶺を感じさせる。炎につつまれる大樹の姿はアンドレイ・タルコフスキー作品を想起させるが、本作においても世界の救済と継承が描かれ、人間と自然、本来のあり方を再考させるのだ。