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題名、ディズニーワールド近くという舞台設定、35ミリで撮影された、少し浮世離れしたカラフルな世界の隅々までベイカー監督のアイデアが行き届いている。川本三郎先生の言葉を借りれば「個ども」であろう6歳の娘は、大人の泣く時がわかるし、友だちとジャムつきパンを頬張る木を気に入っている理由にも含蓄あり。「個ども」に甘えて、母親の造形が貧相だ。あまりに幼稚な母の覚悟を娘の描写から想像させるなど、監督のセンスでカバーするにも限界がある。副題の「魔法」は蛇足かと。
犬や花、ロマンス、出産まで宇宙船内で繰り広げられる物語が50年以上も前に作られていたとは! アニメ大国チェコで育まれたフレッシュな想像力に惚れぼれする。幾何学的なSF世界で〝◯〟のイメージが意味深だ。無限や永遠を表すモチーフが、ダーク・スターに襲われて、めまいを起こした乗組員たちの揺るぎない〝根拠〟を示しているように感じて、自由化の波が訪れた幸福な黄金時代に思いを馳せる。カレル・ゼマン作品などで有名なズデニェク・リシュカのモダンな電子音楽も◯。
レスリー・チャンやレオン・ライのヒット曲を叙情的に使った、転調シーンが美しい。例えばクリスティが恋人との出会いを回想するシーン。29歳のヒロインの姿が17歳に変わる仕掛けに、29歳の彼女の中に17歳の彼女が潜んでいるという愉快な事実を観客は発見する。パン監督が05年に発表した舞台劇の映画化とふまえて観れば、不惑を過ぎた女の中に潜む29歳の女という視点が加わって、作品世界がぐんと広がる。過去の自分とどう折り合いをつけるのか? という深いテーマの映画である。
誤解を恐れず書けば、歴史的背景にウェイトを置かずとも、過ぎ去ったものへの郷愁に身悶えせずにはいられない、普遍的な青春映画として成立している。「若気の過ち」という言葉がぴったりな主人公が、金門島での兵役中に出会った「約束とは自分とするもの」とクールなヒロインと体を張って対峙することで、勘違いをし、背伸びをしながら、大人になっていく。蛍が舞う幻想的な夜、初めて手を取り合って駆けた、二人の笑顔。エンドロールのモノクロ写真に写る希望。はかないがきれいだ。
ディズニーワールド客を当てこんで開発されたモーテル地区が、いまや低所得者の木賃宿に変貌したのは実際のことらしい。前作「タンジェリン」と同様、監督のベイカーは多くを語らない。モーテル住まいの子どもたちの些かタチの悪いイタズラの数々を、慈愛と共に眺めるのみ。『どん底』のコストゥイリョフ、「がめつい奴」の三益愛子といった木賃宿の歴代主人たちに比べて本作のモーテル管理人W・デフォーは、顔は厳ついが情の分かる実にいい男だ。彼自身も幸せではないのだろう。
60年代とはヌーヴェルヴァーグ(NV)の時代である。50年代にフランスで起こった映画運動が、世界各国に伝播していく。また60年代とはSF映画の時代でもある。傍系的、B級的に扱われてきたSFが、すぐれた原作を提供するSF作家の登場、特撮技術・音響の劇的向上と相まって、映画ジャンルの中心的存在にのし上がる。フランスにはゴダールの「アルファヴィル」があった。そしてチェコには本作だ。つまりNWにとってSFとは、同朋的マスコットだったのではないか?
映画前半では景気づけのためなのか、可変スピードやデジタル加工が多用され、日本でもよくある『東京タラレバ娘』的アラサー女子ドラマに付き合わされるかと気が重くなった。しかし監督は05年初演の自作舞台を精魂込めて映画化に漕ぎつけている。その気迫は主人公の焦燥と相まって画面の隅々に深く沈潜する。しかも深度ばかりでなく、彼女の物語が香港という大都市の歴史であるかのごとく敷衍し、まるで香港とは香港映画のことだと言わんばかり。この強弁ぶりに舌を巻く。
「特約茶室」、党公認の従軍慰安所。90年まで実在したそうだ。ここにたむろする慰安婦たち、兵隊たちの欲望、孤独、悲しみ。この抒情がややウェットに流れる。女性やマイノリティの人権主張の環境がようやく整いつつある現代社会において、本作の抒情はアナクロニズムかもしれない。しかし本作の主眼はこの「楽園」を現在の視点から断罪することにはない。悲運にあえぐ人間たちの嘆き、もがきに寄り添っていく。「風櫃の少年」の少年が長じてこんなに厳しく優しい映画を作った。
ディズニーワールドの近くに住んでいながら、そこに行ったことのない子どもたちの話。舞台は安モーテル。そこに住む母娘と周辺の人々をドキュメント・スタイルで綴って。貧しくとも、子どもたちは活き活きと遊びまくる。そのイタズラの数々が昔懐かしの「ちびっこギャング」を思い出す。管理人のW・デフォーが全体の要の役割で、少しとりとめのない映画の流れをぴしゃりと締める好演。なかなかの佳篇だと思うけど、結末の子どもたちの言動に、どうも大人が考えた不自然さを感じて。
チェコには人形アニメとかファンタジーに面白いものが数多くあるので、この63年製作のSFにも期待。かなり生真面目な作風で、あまり面白味はない。が、それが逆にリアル感を生んでおり、本格派SFの趣。人物描写は「惑星ソラリス」(同じ原作者!)を彷彿。宇宙には人智を超えた何かがいる――てなところは「2001年宇宙の旅」みたいで。いずれにしてもそれらの作品の先駆者的価値があって。核兵器を巡るトラブルとか、未来への希望的観測は、当時の冷戦状況の反映だろうなあ。
この主人公って香港の中国返還期の頃が22歳か。そこからバリバリのキャリアとして働き通して30歳を前にして立ち止まったわけね。どこか返還前の香港=青春時代をもう一度というノスタルジーを感じさせる。となると不治の病を抱えながら精一杯人生を楽しもうとするもう一人の女性は、この状況に絶望するなという監督のメッセージだろうか。にしても、これからの生き方を死を目前にした人間に示唆されるという設定が、ちと安直な気がして。それならば、どの年齢でもいいわけで。
69年の金門島が背景。しかも娼館が舞台。中国からの砲撃はあっても、どこか慣れ合いの戦場というところが面白く。ただ兵士と女たちの色模様というか恋愛ドラマの趣向は、日本でもふんだんに作られていた赤線ものとさほど変わり映えがしなくて、おやおやまたかいなという想いが。とはいえ、若い兵士と娼婦が泳いで脱出というところには中国との距離の近さを感じ。外省人の中年軍人が故郷にいつかは帰りたいという心情には、台湾という国の特殊な事情がうかがえて、ほろり胸を打たれた。