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日本とベトナムの国交樹立45周年記念映画というふれ込みに加え、沖縄県も製作支援をしている作品に、ダメ出しを言うのはいささか気が引けるが、こんなにスカスカの脚本と雑な演出のエーガもちょっと珍しい。場面はあってもドラマがなく、人物たちの情報はみな自己弁解の台詞だけ。阪神・淡路大震災(1995年)の喪失感から抜け出せないでいる大野いとが、沖縄の旅行会社で働くというのだが、出勤初日の場面から観る気をソーシツ、ベトナム青年の森崎ウィンも口先だけのキレイゴト。
写真家を撮る。これまでにも世界的な写真家を追ったドキュメンタリーは数多く作られているが、写真家・鋤田氏の足跡を振り返るこのドキュは、アーティストたちの豪華な顔ぶれからしてまばゆくもスリリング。そうそう鋤田氏は寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」のカメラマン(仙元誠三と共同)でもあるのだ。ご本人が世界各地の思い出の場所に出向いての取材秘話も貴重で、その人柄も親しみ易い。ビジネスや人気に直結するイメージ戦略のプロが10代で撮ったという母親の写真も美しい。
自分が動けば世界も動く。自分が止まれば世界も止まる。誰のことばだったか。つまり、どこに居て何をしていようと自分の居る場所は世界の中心だということ。でも実際は、小さな世界であくせくしているのがせいぜいで、自分の居場所さえ、おぼつかない人も。けれども〝モリ〟は違う。小さな自然の庭に、無限の広がり、無限の命、無限の自由を感じ取り、草花の前にうずくまりながら、無限の世界と戯れる。美しい映像と自然体のユーモアで老夫婦の日常を切り取った沖田監督に平伏。
こちらが勝手にドキュ・エッセイと呼んでいる田中作品も今回で10作目。そのほとんどは監督の個人的関心から作られていて、かなり趣味性が強い。むろん、そういうドキュ・エッセイでも記録として貴重だが。「熊野から」シリーズの3作目も、名誉市民となった〝大逆事件〟の犠牲者の話(テレビでも放送していた)や、佐藤春夫記念館のちょっとした演出など、興味深い。が異様にラフな2人の取材者と、全く無意味な東京・青山の小ジャレたカフェの場面が足を引っ張り、ナニこれ!?
観ながら心のなかで劇中のベトナムの青年に一生懸命呼びかけた。いいんだ、全然彼女にかまわなくていい、そのことできみの有望な前途を狭め、スローダウンさせなくていい、そんなに全方位的にいいひとの佇まいをしなくてもいい、たまたまそれぞれの国の発展のタイミングによっていまはきみを指導する立場にある日本人社長の上から目線に対してもへりくだらなくていい、この映画自体が、自分たちは愛され尊ばれるのだという旧世代の日本人の夢、妄想みたいなものなのだから、と。
鋤田正義が表現そのものである写真とコマーシャリズムの一翼を担うイメージという、写真表現の二つの山腹の出合う稜線をロックを道連れに歩いてきたとわかるドキュメンタリー。ロックという商業音楽がどうしても視覚的イメージを必要とすることにも気づかされる。コンセプチュアルなミュージシャン、デイヴィッド・ボウイにはとりわけその力は重要だった。鋤田氏がボウイ生地ブリクストンの「アラジン・セイン」壁画の下に小さく日本語で、有りがとう!と書いたのにはグッときた。
トリクルダウンで低所得層が潤うことの困難を明瞭に予告したのは「マルサの女」の山﨑努演じるラブホテル王が滴る水とグラスの喩えで金の貯め方を語る芝居。あのギラつく俳優山﨑努は近年大御所に位置づけられ置物化していて淋しい。横浜聡子監督作「俳優 亀岡拓次」ではまだ少し動いた。それを大きく超えたのが本作。山﨑努は草木やトカゲや蟻と芝居をする。それは観て心地よい。本作の樹木希林には彼女がナレーションを務めたドキュメンタリー「人生フルーツ」の反映を感じた。
劇映画として巧みになりえない企画に存する価値を感じた。日本が近代化してゆく明治時代の文化流入による活気と、それへの警戒、弾圧である大逆事件を、紀州新宮という土地にフォーカスするなかから描いたことに感銘を受けた。木が切り出せてそれを運べる水路がある土地の豊かさ、それが進歩的な人士を育てたというお国自慢と、日本の帝国主義が対立した歴史を自然に炙り出した。佐藤春夫が詩「愚者の死」でうたった〝紀州新宮の町は恐懼せり〟の語は本作によって払拭される。
現代において〝相手に触れることさえ躊躇う大人の純愛〟をいかに成立させるのか? というのが本作の命題。ヴェトナム人研修生の祖国にある風習や、彼とヒロインが共に沖縄の地において異邦人であるという設定は、〝純愛〟を成立させるために機能している。さらに、2007年という過去を舞台にすることで、〝神戸〟というキーワードも活かされている。天災によって想い出の品などの形ある〝生きた証し〟が存在しない時、相手を忘れないことの大切さをこの映画は再考させるからだ。
直に人と会うこと。また、国境や言葉の壁に躊躇せず人と触れ合うこと。そして、それらの体験が若い時代のものであればあるほど、なお良いということを鋤田正義の人生は教える。お互いがお互いを発見し、やがてお互いが成長することで、周囲が自ずとそこに深い絆を見出し評価する。これがいかに重要なことであるかは、本作で鋤田について語る世界的著名人という面子が全てを物語る。彼の人生が〝一期一会〟の集合体によって形成されていることは、〝生きるヒント〟にもなっている。
熊谷守一の絵画に基づいた画面構成が施されている本作は、〝もり〟という言葉に幾つもの意味を重ねている。例えば、自宅の庭が〝森〟であるかのように撮影することで、普段目につかないところにも〝営み〟があることを示唆しながら、尺取り虫の動きが〝時間の流れ〟のあり方をも論じさせているように見えるのだ。山﨑努は表情の変化を〝殺した〟役作りを行い、その仮面(人に見える部分)の下(人に見えない部分)を感じさせつつ、本人のパブリックイメージを踏襲している点が秀逸。
カメラは基本的に観客が「見たい」と感じるものを映し出し、また観客の心理に寄り添って切り返えされる。ドキュメンタリーのように「その場にいる感じがする」のはそのためだが、モノローグによる情報の処理や説明、偶発的に撮影されたかのような状況も、表層的にはドキュメンタリーのそれとよく似ている。だが本作は、フィクションと現実との境界線が明確なのだ。会話が途切れなくフィクスで撮影されることで、時にカメラの存在はユーレイのようにもなる。何とも不思議な作品だ。