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ヒエーッ、これはキツいわ。みんなでイジメりゃ怖くない、という軽いノリの中3女子グループと、そのグループの悪ふざけで家族を失った少女の壮絶な報復。廃校寸前の中学、枯木の森、雪の積もる大地という設定や状況も、逃げ場のない密室感をビジュアル的に煽り、演じる若い俳優たちの本気度もハンパではない。背景にチラッと無責任で一方的な大人たちを置いているが、娯楽映画としては限界ギリギリ、どうしても不快感の方が強い。でも考えてみれば今の日本の現実の方がもっと不快!?
彼女は全てに苛立ち怒っている。日本に、自分が住む基地の町・厚木に、親米的な自分の家族に、そして何よりも苛立ち、不貞腐れている自分に。一匹狼のラッパー娘、サクラ。その怒りをことばにするために、夜ごと、辞書の頁をめくったりも。この怒りは、いつかは妥協や諦めに変わるかもしれないが、いま怒っている彼女のその姿は、実に実に説得力があり、演じる韓英恵、指の先までサクラになり切っている。タイトルにも毒を盛り込んだ監督・脚本の宮崎大祐に最大級の共感を捧げたい。
79分。愛すべきドキュ・ドラマである。一面の雪の中を、カラフルなニット帽とカラフルな防寒服で完全防備し、6歳の男の子にはちょっと大きすぎるリュックを背負って、こけつ、まろびつ、さまよい歩く。冒頭に男の子の家庭と家族がチラッと映し出されるが、それ以外は雪と男の子だけの世界。何やら自由を得た仔犬が好き勝手に銀世界と戯れているような。作意を感じさせない作意が巧みで、お手本はフランス映画の「赤い風船」? 男の子の無防備な表情と行動の勝利だろう。
たびたび映画のロケに使われている富山県氷見市が舞台だけに、風景も空気も穏やかでいい。が、せっかく大ベテランの草笛光子を登場させながら、骨折を理由にベッドと車椅子に縛りつけるとは、あまりにももったいない。いや、それ以前にハナシが実に他愛ない。草笛のおばあちゃんを励ますのが、結婚を控えた孫娘の文音で、曰く、バージンロードを歩いてほしいから。いや、励ます理由はともかくとして、文音のナリフリの軽薄さは小娘並で、無意味にハシャいでいるのも退屈の極み。
ひとをいたぶることと残酷にこだわってここまでやれてるこの監督はほんとに他にない個性。いいぞ。人間って血の詰まった肉の袋じゃないですか、というアングルから見えてくる世界もたしかにある。古典的なリベンジもののフォルムだがいじめつくされ家族も殺された主人公がついにいじめっ子の目玉を突き刺すとき、しみじみとよかったと感じた。釈由美子よりもむしろこの映画が「修羅雪姫」。観終えて女の子二人の観客が、いじめダメだよーと話すのを聞いた。そういう効用もある。
私は好きな音楽もあるしミュージカル映画を観ても楽しいと感じる性質だが、最近は、映画で音楽がさりげなく使われることを超えて聴かせます歌ってますとなる場合や主題や登場人物が音楽についてこだわる映画の場合、まさにその場面で心地よく鳴ること巧みに歌われることはその音楽で何かが隠されてしまわないだろうかという疑念と不満を抱いている。本作の韓英恵がラッパーを志望することで自らに招きよせる吃音性と克服、それを状況にまで重ねようという狙いには感嘆させられた。
宇宙空間で地球滅亡を阻もうとしたり殺意を持って迫る相手と対決したり、映画の登場人物は劇中で様々な困難や危機に遭遇するものだが、本作で描かれた六歳の男の子の彷徨は映画というもののなかでぶっちぎりのダントツでうっわ主人公やっべ!死ぬ感が強いものだった。この冒険の純度は高い。チラシデザインとかは微笑ましい子ども映画みたいだが、人間なんて生き運だけで生きてるというちょっと怖い映画でもある。もっと仕掛けてくれるほうが観やすいが充分に劇的で映画だった。
ナンシー・メイヤーズ監督作「ホリデイ」に、イーライ・ウォラック演じるハリウッドの脚本家に名誉賞授与の話があり、老齢のため彼は歩行器なしでは歩けないところ、知り合ったケイト・ウィンスレットが、晴れ舞台にちゃんと歩いて出席しましょ、と彼に歩けるようになるトレーニングをほどこすエピソードがあるが、それと同じ感銘はあった。歩けないおばあちゃんを演じた草笛光子は通販番組で足腰を鍛える健康ステッパーの宣伝をやっていて今日もぐいぐいステップ運動している。
内藤瑛亮監督の描く〈鮮血〉は、本作で白い雪景色を赤く染めてゆくが、〈赤いコート〉や〈赤い傘〉などが映像に〈赤〉と〈白〉のコントラストを生み出しつつ、〈ミスミソウ〉を際立たせていることが窺える。そしてこの映画では、目線の高さが登場人物同士のヒエラルキーを表現している。例えば主人公・春花は、いじめを受けて穴に突き落とされ、妹が泣く時には座って目線を合わせている。だからこそ、いじめていた妙子との立場が逆転する場面では、目線の高さも逆転するのである。
韓英恵は怒りに満ちた眼差しで相手を睨みつける。その視線は常にやや斜め上の角度を形成。それは彼女の背丈や表情が伏しがちなことにも起因するが、時折爆音が鳴り響く大空に視線を向けているようにも見える。彼女の名前〈さくら〉は、大和=日本を象徴する花。孤高の抗いは美を伴い、社会の中で独り咲き誇る〈桜〉のようでもある。映画冒頭、彼女は上空を通過する軍用機を睨みつける。彼女のぶつける怒りは個々人に対してのように見えて、実は社会に対してなのだと言わんばかりだ。
青森の地に縁のないふたりの監督による視点で〝知らない土地〟を描くことが、登校途中に小さな冒険へと旅立つ子どもの視点と奇しくも同期している。いつもの風景でありながら、普段は見ることの無い平日の雪景色。台詞を極力排し、説明を省くことで、観客もまた子供の視点と同期してゆく妙。そして、フィクションでありながら現実の家族を配置することで、プロではない役者が映画の中の日常を紡ぎ出してゆく不可思議。映画にとって必要なものが何であるかを我々に問いかける。
何度も挿入される〝食〟に関する場面。本作では〝食〟を描くことが〝家族〟を描くことに繋がっている。「あたためて食べてね」とメモが添えられた食事。喧嘩になった後も「お腹がすいただろう」という祖母の想いが〝食〟に投影されている。そして同棲するふたりの夕食場面もまた、家族の思い出と繋がっている。過去と現在を繋ぐのは〝手作りコロッケ〟。鑑賞後は〝手作りコロッケ〟が愛おしくなること必至で、僕も帰り道に思わず購入。残念ながらコンビニのコロッケだったのだけれども。