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演者の巧さに舌をまく。中でもロラン家のおそるべき子供たちを演じたユペールとカソヴィッツが秀逸だ。都合の悪いものは見てみぬふりを貫くが、悪ふざけが過ぎた子供(ロゴフスキ)の手をひとひねりで黙らせる強い母、13歳の小娘にも底の浅さを見抜かれるダメな父を、淡々と演じる。テレビで見れば、自然の摂理として受け容れられることが、現実で見ると手が震えるものだと、年老いた家長が孫娘に説くシーンがある。映画は現実を見せるものと信じている、ハネケ監督の矜持に圧倒される。
南国ブラジル・サンパウロに降りそそぐ夏の光、ダンスにはもってこいの、ベル・アンド・セバスチャンのポップなナンバー「トゥー・マッチ・ラヴ」、なかよし男子の自転車の二人乗り……我が好物がズラリと並んだ、みずみずしい青春映画だ。主人公のレオナルド少年が、盲目でありゲイであることに、観る者が身構える必要がないストーリー構成は、それらのモチーフに対するダニエル・ヒベイロ監督の厳しさ、熟慮に因るものだろう。レオの幼なじみ役、テス・アモリンも素朴でかわいい。
馬に乗った主人公ケンタウロスが、翼の如く両手を天に掲げ、大地を駆ける姿は、まさに人馬一体の美しさだ。おさな妻とマクシム売りの美女に愛され、仕事仲間には「女は必ずものにする種馬」などともてはやされる男の馬力が、スクリーンから溢れ出ている。しかし真の魅力は純情にあり。元映写技師の彼は、女には優しいが手は出さず、親指のキスが大好きなロマンチスト。アヒルの口封じ技やおしゃべりな伝道師に頭を剃られるシーンなど、牧歌的なユーモアにも主人公のチャームが際立つ。
監督のいう「物質主義VS精神主義」の構図にあてはめれば、ドイツの高級リゾードホテルに集う人々は、おおよそ次のように分けられる。エコノミストとアーティスト、権力と自由、貪欲と清貧、理屈と感性、饒舌と沈黙……。しかしシェパード犬のロルフ然り、世界はそれほど簡単にはできていない。修道士の忠告に従って想像力を働かせれば、公共と秘密、俗世と瞑想、必然と偶然、途端に黒と白は混沌となりゆく。そう、これはミステリというよりは風刺劇、おのれの勘違いをわらう映画なのだ。
ブルジョワ階級の没落をしみったれた懐古をもって描くくらいなら、猛毒を吐きながらもんどり打ったほうがどれほどましか。M・ハネケの映画に生ぬるい共感は無用。憎悪、軽蔑、懲戒をもってブルジョワに棺桶を用意する。フランス革命期には、封建貴族社会に猛毒を注いだサド侯爵がいた。西欧市民社会落日の現代には、ハネケが標的の脇にピタリとくっついて、その上にグロテスクソースを掛ける。邸宅の絵画や陶磁器の価値を理解しそうな顔は、老いぼれ以外に誰も見当たらない。
目の見えない少年が両親の保護圏から脱し、同性愛に目覚める経緯がじつにいじらしい。サンパウロの山の手地区でのロケは、貧困や非行、暴力や無秩序というブラジル映画の一般的イメージを、優雅な佇まいによって根底から覆してくれる。少年は困惑と愉悦の入り交じった場へと身を置いていく。点字タイプライターの打鍵音や、折り畳み杖が伸びる際の金属音など、彼はさまざまな聴覚の中に生きる。これに映画館で説明役を務めるBFの囁きが加わるだろう。彼の聴覚的人生に幸あれ!
中国北部から中央アジアにかけては、古くから匈奴や突厥など騎馬民族が代わる代わる台頭し覇を競った。その歴史を今に受け継ぐキルギス人は馬を愛し、馬と共に生きる。監督が主演も務めるが、彼のしでかす愚行をアナクロ男の滑稽さと無念さとして捉えるには、演技設計が二枚目に寄りすぎの感あり。肝心の馬の走りが不十分。最も美しい走りが過去の名作「赤いりんご」(76)の抜粋引用というのでは物足りない。人間描写を犠牲にしてでも、馬の映画とすべきだったのでは?
本作の監督はフェリーニやフランチェスコ・ロージの助監督を務め、イタリア映画本流の衣鉢を継ぐ人材なのだろう。ロケ地がドイツの冷ややかな高級リゾートだろうと、G8財務閣僚とIMFの会議というグローバリゼーション的な物語設定だろうと関係ない。「カルトジオ修道会」の白い法衣を着た厳つい僧侶を一人そこに投げ込んだだけで、画面はいっきにイタリア映画になってしまう。イタリア映画が「陽気」だなどと考えるのは紋切り型にすぎない。この物々しさを賞味すべし。
冒頭から何か怖いものが映画の底を流れていて。突然、いまあるものが崩壊するんじゃないかという感覚。3世代の家族の、祖父の空虚、母の焦燥、その弟の二面性。そして息子と娘の世代が、この一族を破滅に導くのではというサスペンス。きりきりじわじわ、彼らを追いつめながら、最後のカタストロフィー、その一歩手前で突如幕を閉じたようなジレったさが、いかにもハネケらしくて。相変わらず一筋縄ではいかない。でも面白い。だけどこの皮肉な見方が少し鼻につき、辟易する反面もあり。
なんだろう、この自然さは。盲目の少年が主人公といえど、その不自由さに重きを置いてないし。性の目覚めがあって同性が好きになっても、話はシンコクにならないし。男子2人と女子の三角関係のもつれに行くのかと思わせて、そっちにも傾かないし。ただもうそこにこんな奴らがいて、気が合うから付き合ってるんだけど、そのどこが悪いの? てなスタンスで。障碍とかゲイとか性差とか、声高に大仰に、その悲しみ苦しさを訴えるより、この在りのままでいいじゃんがいいと思った。好篇。
キルギスの映画。遊牧民の話かと思う。でもこの国も経済優先社会となって、もはやその暮らしは廃れている。そこが興味深く。主人公が馬を盗む。その目的が売買ではなく、ただただ自由に草原を駆け廻りたい。ここにこの作り手の今の世への不満、反抗を思わせて。しかも、男が元映写技師というところにロマンチシズムも匂う。お布施をねだるイスラム教伝道師、露天商の美人後家、裁判所に集う地元の人々。そのあれこれがキルギスという土地の面白さに溢れて。最後が図式に流れたのは残念。
各国の財務大臣が会したリゾート・ホテル。そこに厳格な戒律で名高い修道士も招待される。ある朝、超一流金融マンの不可解な死。その謎をめぐるミステリー風展開となって。修道士が探偵役ではなく、容疑者となる皮肉。死んだ男がもらした告解。その内容をどう修道士から聞き出すか。この騒動と混乱ぶりがゆがんだ笑いとなって。経済最優先の世界。そこに紛れ込んだ神の使いに、金の亡者の如き人間たちが動揺し、あわてふためく。いかにも西欧的風刺劇だが、ちと頭でこしらえすぎの感が。