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TVゲームなど、一切縁も関心もないこちらとしては、プロゲーマーたちの楽屋裏ドキュメンタリーと聞き、あまり期待せずに観たのだが、これが意外に面白く、取材されているゲーマーたちにもつい共感を覚えたり。その世界でトップを目指そうとすることの自信と不安、誇りなどが、ライバルに対する嫉妬がらみでしっかり伝わってきて、たかがプロゲーマー(ゴメン)、されどプロゲーマー、侮れない。大画面で勝負を見ているゲーム好きたちの熱狂ぶりにも興味津々。教わること多々。
「最後の命」「悪と仮面のルール」そして本作と、中村文則原作の映画は、設定もキャラクターもいかにもフィクショナルで、有りそう度より無さそう度が先行、だからその無さそう度を無責任に楽しむに限る。特に本作の場合、主人公は男だが、ちょっと危ないロマンス小説的な雰囲気もあり、そもそもタイトルからしてそのノリ、おまかせ料理よろしく、出されたものをその都度、味わい、口に合わなければ残せばいいだけ。とは言え、素材(人物)より器と盛り付けばかりが目立つ気も。
断然、断固、面白いったらない。但し、かなり個人的な理由もある断然、断固の面白さなのだが、それはともかく、末井昭氏(とても呼び捨てにはできない)の悲喜劇的人生は、社会や世間にいくつもの隙間があった昭和後半期の切り込み隊長のようで、武器は女性のきわどい裸をメインにしたエロ雑誌、みんなで作れば怖くない!? 母親に関する回想にしても、どこか飄々としていて、当時の空気感や時代風俗も頑張っている。柄本佑の力みのない演技も最高で、警視庁筋の松重豊もいい感じ。
かるたの札を取るスピードには毎回ワクワクする。全神経が指先に集中した一瞬のリアクション。このシリーズの華であり、見せ場である。けれどもそれ以外は、他の部活映画と大差なく、部員募集のエピソードや他校との因縁など、いまさらの話の蒸し返し。原作コミックの、そして広瀬すずのファンにしてみれば、これでOKなのだろうが、受験勉強のために一度はかるたを捨てる部長の話など、いかにも少女コミックらしいヤラセで、その先までミエミエ。クィーンの松岡茉優が楽しい。
これは観てよかった。海外ドキュメンタリーを観ているような体感がある。それは取材されているトップゲーム選手の国籍がフランス、アメリカ、台湾であることにも由来するだろうが、登場場面の多い日本の選手の撮られ方見せ方も日本国内で流通するドキュメンタリーとは違う印象。この映像自体の国籍が無国籍に拡がるゲーム文化のなかにあるからだろう。本作はそのゲーム文化をあまり知らない人間にも彼らの歴史と求道、生活や人生に懊悩する姿で強い感銘を与えるのではないか。
(たまたま読んでいた)原作ほどじゃないがやはり話が(というか、ミステリー的であろうとする、謎やらサプライズやらがあることが)おもしろいので見られる。資料集的に事態が回想され語られる原作のスタイルは小説らしいが、現在進行形で行きたいのが映画としては自然な(?)翻案か。だがそこで生じた省略や単純化で物語がパワーを増したかというと疑問でもある。世界はガンちゃんとそのファンのためにまわっているのか。……いるな。北村一輝のただものじゃない感が素晴しい。
のちにディープだったと回顧され評価されるサブカルをやったひとたちは飽きっぽくイイカゲンで、つまり快感純度が高いひとたちで、それを後年丹念に追い、研究してしまういまの人間は飽きっぽくない、つまり退屈な人間なんじゃないか。そこに忸怩とする。本作は面白いが、冨永昌敬がいま同時代的なものを手探りしながらつくった映画よりは若干おとなしいものになってる気がした。ときに美青年ときに異常者的な柄本佑の演じる末井昭、菊地成孔のアラーキーはずっぱまりだった。
クライマックス的なものに溢れているがクライマックスがない。いや、あったが、映画自体が、もっとすごいことが控えてますよ、と主張していて、そのくせそれについてはイメージ映像的に見せてすっ飛ばしたというか。もともと前々作前作もずっと才能と情熱と若さのある登場人物たちの躍動と成長と運命を見せ、さあ次、また次、と引っ張るドライヴ感でやってきていた。でも悪いとも思わない。ぬるい恋愛より熱情のほうが大きいことや義務感の強い人間が天才を凌駕することも面白い。
時に「映画評論家って、どうやって稼いでいるんですか?」と問われるが、本作はプロのゲーマーに対する同様の疑問に応えている。だが真髄は、かような下世話な回答ではなく、彼らの生き様や、今後の人生に対する焦燥と不安が描かれている点にある。スポーツ選手や芸能人など、特殊な世界に身を置くもの同士が理解し合い、結婚し、家庭を形成してゆく事例と同様に、プロのゲーマーのそれも描かれる。そしてプロのゲーマーは「ある意味でアスリートではないか?」と思わせるに至る。
核心に触れるならば、登場人物を演じる役者たちの外見が美しいことは、この物語の解釈をミスリードさせる要素のひとつとなっている。ある視点からだと純愛物語のように見えるのだが、別の視点では強烈なストーカーの物語に見えるからだ。「映像化が困難」とされた原作の要素を見事に映像で表現させ、映画オリジナルの章立てによる構成の妙によっても、別の意味でミスリードを生んでいる。また、鏡に映る、或いは、水溜まりに映る〝もうひとつの姿〟など、物言わぬ伏線も巧みに演出。
個人的にはある時代に対する憧れに溢れているのだが、労働自体をよしとしない傾向にある昨今の社会や、品行方正を重んじる傾向にある昨今の社会通念と照らし合わせると、過酷な労働や煽情させることを厭わない出鱈目な姿勢はどう映るのだろうか。本作は性産業の年代記のようだが、勢いの波に乗った出鱈目な熱量が文化を生んだという昭和文化の裏面史でもある。その〈熱〉は汗や眼鏡の曇りなどが導く季節によっても視覚化。全篇に漂うこの〈熱〉こそが、時代の〈熱〉にもなっている。
百人一首の一節を引用し、それが物語と同期するのが本作の魅力。その中で、聞くべき〈音〉と、そうでない〈音〉との線引きを、余計な〈音〉を削ぎ落とす音響効果で演出している。そのことは、千早と太一、新との隔たりを表現しているだけでなく、畳スレスレの低いカメラ位置と共に、観客もまた競技かるたの世界へ没頭させる効果も生んでいる。出番の少ない松岡茉優は、前作に続いて瞬きひとつしない役作りで〝現人神〟の如きバケモノ感を醸し出し、メンターとなる賀来賢人も出色。