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抑圧されていたものが南部の空気のなかで噴き出してくる感じはD・シーゲル版の方が断然上だが、女性側から事態を語る本作(エンディングに流れる歌声も女子生徒のものに)では、男性の参入で生じる微妙な変化が繊細に写し取られているのと、男性の暴力性が女性にとっていかに恐怖であるかが表現されているのがポイント。音楽なしで押し切る演出の禁欲ぶりも立派。一方、原作にもシーゲル版にもあった黒人女性奴隷の存在が消去されているのは、意図は理解できるけれど、もやもやする。
あれこれの国で最近起こっていた(いる)こととあまりにシンクロするのでそのことばかりに気持ちが行ってしまい、映画自体を評価することが難しいのだが、主人公フェルトの家族の描き方が中途半端なのと、音楽に頼りすぎのきらいがあるのは気になるものの、生真面目すぎるくらいな作りの政治スリラー。時代的には、ちょうど「J・エドガー」の物語が終了したところから始まる。実はフェルトはクライド・トルソンの後任にあたるらしいのだけど、残念ながらこちらにトルソンは登場せず。
声を失った女性(人魚姫?)の、最高にロマンチックで最高にエモい恋愛物語。ちりばめられた旧作ミュージカル映画の断片やノスタルジックなデスプラの音楽がスイートな雰囲気を醸し出す一方で、明暗の差を強調した画面はノワールに近く、一筋縄ではいかない。時代設定は、数々の差別がまかりとおる一九六二年。M・シャノン演じる悪役は、実は「男らしさ」の呪いをかけられた悲劇的人物でもある。アステア&ロジャーズの某ナンバーを下敷きにした場面はもう少し長く観たかったかも。
イスラム教に対するキリスト教の優位を描いていると曲解されかねない危うさがあるが、それを除けば美しい青春映画。英雄的行為を行なった若者三人を本人たちが演じるという奇手に意外と不自然さがなく、しかもカリスマ性のなさがテーマに合っている。手持ちキャメラでだらだら撮られるヨーロッパ観光旅行が驚くべき楽しさで、それはそのまま、かけがえのないモラトリアム期間の輝きにほかならない。でもほんとうは、ラストシーンのあと三人がどうなったかこそが描かれるべきだと思う。
「ダーティハリー」のイーストウッドとドン・シーゲルのコンビによる「白い肌の異常な夜」はバッドテイストに満ちた意外性もあり、面白く見た記憶があるが、ソフィア・コッポラ版は端正で淡泊。南部の奥深い森も透明で美しい。コリン・ファレルが北軍兵士を演じたことで、ニコール・キッドマンを中心とする女性側の心理と生理もキメこまかく引き立ち、無邪気な少女が怖い存在に見えたが、シーゲル版に比べると、きれいすぎて観念が先走りしている。もっと泥臭くてもよかったのでは。
ウォーターゲート事件を描いて評判をよんだアラン・J・パクラ監督「大統領の陰謀」ではハル・ホルブルックがニュース源である謎の人物〝ディープ・スロート〟を演じていたが、その男マーク・フェルトにスポットを当て、リーアム・ニーソンがFBI関係者の苦悩を熱演。ピーター・ランデズマン監督はジャーナリズム出身だけに劇的盛り上がりより事実の詳細に力を入れ、トランプ現政権との類似を連想させる演出だ。家出した大学生の娘のヒッピーな時代感覚なども描いてほしかった。
マニアックな観客には受けるお膳立てがいっぱい。口のきけない孤独なヒロイン、サリー・ホーキンスは古い作品を上映する映画館の2階のアパートに住み、冷戦下の米国政府の極秘研究所に清掃員として勤務。そこに研究材料として登場したダグ・ジョーンズ扮する奇怪で「美しい」クリーチャーと愛し合う展開だが、クリーチャーがよくできていて、話に無理はない。ただし愛猫を食べてしまう場面には身を引く人も多いはず。オクタヴィア・スペンサーが、ユーモアと頼もしさで引き立つ。
イーストウッドの演出とドロシー・ブリスカルの脚本が巧妙なのは現実にテロの場にいた3人のアメリカ人青年を登場させ、ヒーローとなる彼らが、ようやくの思いでヨーロッパ観光にやってきた平凡な大衆にすぎないことを回想場面とヴェニスやヴァチカンなどの観光旅行を丁寧に撮影して、観客に納得させていることである。東浩紀の『観光客の哲学』には、「テロリストは観光客に偽装するし、ときに観光地を襲う」と書かれていたが、そういう視点からも87歳のイーストウッドは新しい。
乱暴な言い方だが〝ゆるふわ〟。そんなS・コッポラ特有のタッチが功を奏し、舞台となる女学園に立ち篭める幻惑的空気は濃厚になっているが、物語のおぞましさ、女たちの妖しさは逆に薄くなっていて71年版にヤラれた者からすると、そのあたりは物足りず。まぁ、女性たちが抱える閉塞感を描くことに注力しているので当然か。恨めしそうな面構えに拍車の掛かってきたK・ダンストが◎。原作は60年代に刊行、舞台は19世紀だが、男なんぞいらないという現在の風潮にはハマっている。
当然のごとく「大統領の陰謀」B面というか、対にして観てしまう。考えてみれば、ヒントの数々をもらってニクソンを追い詰めたワシントン・ポスト記者よりもFBI副長官でありながら〝ディープ・スロート〟としてそれらを与えるM・フェルトのほうが大変そうではある。だが、たいした危険が待ち受けるわけでなく、スリリングな駆け引きもなく、平坦な感じで終わってしまって拍子抜け。道義を踏み外さぬ彼の姿に熱くはなったが……。干され中のT・サイズモアの出演に少し沸き立つ。
瀟洒な家に住み、愛らしい妻子に囲まれ、豪華な車を乗り回す一方で、恐怖と暴力で周囲を威圧。舞台となる60年代アメリカを暗喩した軍人に扮したマイケル・シャノンが秀逸すぎる。モンスターとしての存在は半魚人以上で、恐ろしさだけではなく温かな場所に身を置けない性分の悲しさも醸し出しているのが素晴らしい。正直、彼を筆頭にキャラ設定のあざとさが目立つのだがデル・トロの甘く、切なく、張り詰めた語り口に飲み込まれた。ヒロインが暮らす部屋をふくめ、美術も申し分なし。
主演の3人を筆頭に、欧州での彼らの道程や事件現場となった列車にいたるまで〝本物〟を動員して再現を図る。10年近く〝英雄たち〟にこだわる御大が、そうすることで彼らの誕生の瞬間や存在意義を目の当たりにしたかったのかはわからないが、衰えぬ実験精神には感服する。とはいえ、3人の人生急転を印象づけるためだとはわかっているが、欧州旅行のダラダラを極めた描写はけっこう耐え難いものが。「ヒア アフター」程ではないが、宿命に対する御大のスピリチュアルな視点も感じる。