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親友に大きな借りができたと思い悩む主人公と、主人公を責める気などまったくないその親友。どちらもキレイごとではなく、しっかり足が地に着いていて、ちょっと大袈裟に言えば、主人公たちの友情と思い遣りに向田邦子的世界を連想したり。俳優陣の等身大の演技もリアル。市井のささやかな話で、説明台詞で片付けたりの描写不足は否めないが、作者たちの誠実さは伝わってきて、好感が持てる。主人公の恋人のリアクションも説得力がある。2年前の作品だが、公開おめでとう。
華やかな芸能人という印象が強い夏木マリが、地元育ちのふつうの中年女性を、ちょっとガニ股歩きで演じ、かなりくすぐったい。化粧っけがなくても眉など芸能人のそれだし。東北大震災で夫が津波に流され、以来、小さな民宿を営んでいる。そんな彼女をメインとした地元密着型のヒューマンドラマで、大きな事件やトラブルは何も起きないが、そのささやかな日常はいい感じ。何度も写し出される自転車での往復や、一人でいるときの孤独の影。そうそう、終盤の食べっぷりにも嬉しくなった。
東日本大震災のドキュメンタリーは、切り口や取材対象がどう異なっても、ドキュメンタリーとしてのストレートな評価は許されないような雰囲気を感じてしまう。取材されている方々のことばやリアクションに、こちらは返すことばがないからだろう。その点、「一陽来復」は、被災した方々の6年後が映し出され、笑顔で前向きに語る方が多い。が、他のドキュメンタリーやテレビドキュで見かけた方が何人かいて、こう言っては何だが、取材慣れしている方も。という素直なドキュ。
孤独な転校生。ひねくれ者の不良。カシコい女子。そして音楽。まあまあ、よく次々と似たような設定の青春映画が作られるものだとアキレてしまう。それにしても「サニー/32」で白石監督と組み、オリジナル脚本でネット族の妄想と暴走に血と冷水をぶっかけていた髙橋泉が、人物もエピソードも歯が浮くような青春漫画の脚本を手がけるとは。プロも大変だな、とつくづく……。時代は昭和で、美術や衣裳はナルホド昭和的だが、ジャズの特化もおママゴトのレベル。あゝ、シラジラしい。
面白い。家族がない人間も家族との確執に悩む人間も結婚などということをやろうとすれば、アメリカ映画で観たことあるようなロードをさすらう無法な男女の結婚ではないのだから、彼我の家族そのものと家族観の突き合わせと食い違いにギョッとさせられる。これはやってみればわかる。そこに主人公が友に負い目を感じる出来事を重ねてくる作劇と、ダルデンヌ兄弟ふうの手持ちで良いところに入っていく撮影が、あり得ると思える範囲では最大限の、生活派ハードボイルド世界をつくる。
東日本大震災を劇化することも映画に課せられた使命だと思う。取材、仮構、やがて映画として現れる、ほんとうに居るひとたちの代理のキャラクターと物語。本作が対象としているのはもはや震災の直接的な被害よりも七年経ったところでも消えないトラウマ、生きあぐねであり、そういう現在性にもなるほどと思わせられる。老いた姿をつくり、それを積極的にさらして演じる夏木マリの存在が力強い。その彼女のもとに皆が集う。あの引き寄せられかたとその幸福感は映画らしかった。
東日本大震災のドキュメンタリーでは、苛烈な体験を経たこととそのことについて考え続けざるを得なかったために無名のひと普通のひとが多くの至言名言を孕み、それを観る者に告げる。それらを観るたびに慄然とする。あの震災については社会の脊髄反射的システムである報道だけでは足りなかった。風化が明確に意識される現在においては震災ドキュメンタリー映画の記録性と長いタイムスパンでの伝達力はより重要度を増しているとも思われる。何本あっても足りないところにまた一本。
スローやハレーションでその季節の煌めきを押し売りする画面が多発したとしても、筋立てにおいて、日常より恋より熱くなれるものを見つけた若者たちが躍動する映画は軽んじるような言い方でキラキラ映画と名指さず、ただ青春映画だったと言いたい。そういう映画ではあった。文化祭で、GSふう演奏がアホっぽく、ピアノとドラムのジャズセッションがそれを圧倒する様は新鮮。演奏そのものが重要な芝居であるため音楽が音楽そのものとなって映像に隷属することをやめる気配があった。
己が媒介となって悪意無く他人を詐欺に巻き込んでしまった場合、その責任はどこまで我が身に及ぶのか?という疑問。本作では登場人物たちの苦悩を際立たせるため、詐欺に遭ったことを確認する行動が繰り返し描かれる。この反復を丁寧に描くことによって、人間関係がじっくりと炙り出され、人間ドラマを紡ぎ出してゆくことにも繋がっている。「百円の恋」に続いて「あゝ、荒野」でのボクシング指導においても才覚を見せた松浦慎一郎が、自らの体験を基に主演しているという点も一興。
この映画では「コミュニケーション」=「人と人の触れ合い」のあり方が様々な視点で描かれている。例えば「コミュニケーションが上手くゆかない理由は〈言葉〉に起因するものではない」と表現するため、外国人の言葉はあえて字幕によって翻訳されていないことが窺える。また、過酷な状況を自力で生き抜く強さを印象付けるのは、夏木マリが自転車を漕ぎ、押す姿を何度も挿入する点にある。彼女がひたすら、前へ、前へと進むことは自力で生きることのメタファーにもなっているからだ。
東日本大震災によって引き起こされた人災に翻弄された人々を描いた本作に、政府や大企業、政治家や資本家は登場しない。寧ろ、市井の人々が生き残ったことへの後ろめたさを抱えながらも、恨み辛みを乗り越えて生きてゆこうとする姿が描かれる。人の数だけドラマがあり、それでも人生は続いてゆくという現実との対峙。朝靄に包まれた田んぼが導くのは「先がよく見えない」ことへの不安のようだが、〈冬至〉を意味するタイトルは「やがて春がやって来る」という微かな希望をもたらす。
舞台となる街のロケーションがあってこその本作。その地理的関係は、物語と同期しているようにも見える。例えば、学校や自宅が〈坂〉の上に位置する一方で、レコード店やスタジオは〈坂〉の下(或いは階下)に位置している。この位置関係を基本に登場人物たちが坂道を下る姿を映し出すことで、彼らにとっての〝居心地の良い場所〟=〝拠り所〟へと移動していることを表しているようである。特筆すべきは、中川大志の演じる〝蛮カラ〟の佇まいが、教会同様の壮麗さを纏っている点。