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狂言回し的な主人公役・錦戸亮の、一歩引いた演技に感心する。父親、同僚、幼馴染みなどの周囲の人たちだけではなく、元殺人犯たちにも、まず相手の意志を優先し、自分を押し付けたりはしない。小心者といえないこともないのだが、そんな主人公の存在が映画の風通しをスムーズにし、ともすれば重くなりかねないドラマに軽みを生み出している。元殺人犯たちそれぞれのエピソードも、終盤で事件を起こす2人以外は地に足が着いていて、特に田中泯と水澤紳吾の話がいい。そして町の伝説。
いじめに援交、手作り弁当のデイトなどなど、現在なら中学生たちの世界。が、岡崎京子の原作漫画では彼らは高校生、映画も高校生のままで、その辺り、時代の変化を感じないではいられない。互いの連絡も家庭電話。けれどもどの時代にも共通する青春期特有の独り相撲と、その暴走は、大いに説得力があり、雑草、死体、河、工場群も生々しい。アウトサイダーふうの主人公・二階堂ふみとゲイの吉沢亮との奇妙な友情も、ささやかな救いとして印象的。監督による彼らへの質問も面白い。
確信犯的に作られた炎上映画である。少女による同級生殺害事件をベースにしたネット人種の集団狂騒劇。人物のどいつもこいつも自分だけに夢中で、他者には無責任。なり行きで殺される人が何人も。けれども侮れない。作者側は、人違いで拉致された北原里英を思いっきりオモチャにしたあと、〝母性〟教の教祖に変身させるのだ。あくまでもネット族向けの。といってもかなりゴリ押し的なのだが、安易で不定見なネット族へ発信する毒入り饅頭として有効で、炎上映画、やるじゃない。
今泉力哉の作品は、どれも短篇小説的なハナシをムリヤリ長篇映画に仕立てている印象がする。ささやかなエピソードとスケッチふうな演出でダラダラと話を引っぱり、さしたるドラマは起こらない。いや今回は珍しく、パン屋に入ってきた女がいきなり女店員をフランスパンで殴る、というショッキング(!?)なシーンでスタートするが、主人公は殴った方ではなく殴られた女、しかも考えすぎて自分のことも決められないタイプ。そんな彼女に2時間近く付き合って、もう、やれやれ。
あなたは(更生した)殺人者に対して恐れや偏見を抱くか、と映画から問われている間は、イヤなことを問うなと思いつつも見ごたえがあったが、本作はそのアクの強さを途中で放棄する。なぜだ。「さすらいの恋人たち 眩暈」の北見敏之が半身不随老人ながらも優香とベロベロベロチューをかまし、優香の役の来歴も阿部定みたいなものだと語られ、主人公がそんな彼らにポカーンとするのを見て気づいた。ロマンポルノ的なものの欠落に。それなくしては生、悪、などの大きな問いはない。
これは苦手なほうの90年代だ。当時原作を読んでも何をスカしてんだか、とわからなかったが、そのわからなさがそのままよみがえり、そういう意味では的確な映画化かと。しかし脚本の突き刺しかたが浅い気がした。自分が18歳くらいのときは貧乏すぎて焦燥も倦怠もなかったが死体は至るところにあった。隣人は腐乱して発見され、ドヤ街に映画を観にいけば客席でホームレスが死んでいた。死体は臭いものだ。それを知らない者が持ちうるファンタジー。かっこいい映画だとは思う。
過去に佐世保小殺害事件を思いがけぬかたちで映画にしたものに「まだらの少女」(監督井口昇、脚本小中千昭)もあったが、本作はさらにこれに関するその後のネットカルチャー的な出来事をも取り込んで現在の映画にしてみせた。非常に風変わりな野心作。他人の心をザラッとさせることで一瞬の陰湿な満足感を得ることがデフォのネットという場で、必然的に元殺人犯女性が女王化したりするが、キャラは暴れ、画面はふざけ、その活気で映画はネットに対抗し、ひとつの願いを提示する。
〝その金でパンを買うな、ダイナマイトを買え!〟と「群盗荒野を裂く」のラストでジャン・マリア・ヴォロンテは靴みがき青年に言う。生活に隷属するな、闘えとの呼びかけだ。世の多くのパン的な映画にはその世界認識がそもそもないが、まず冒頭に凶器としてのパンの可能性を見せた本作はちょっと違う。パンもまた冒険だ。スタイル映画の要件も満たしつつパン屋の娘の生活にはモハメド・アタばりの緊張感が。監督の周到さとスタッフ・キャストの総合力が日常を充実した映画にした。
コミュニティの「異質な存在」=「のろろ」が秩序を維持し、「異質な存在」=「元受刑者」が秩序を乱すという反定立。本作は現代社会を跋扈する〝不寛容さ〟のメカニズムを、原作漫画とは異なる手法で解体しようと試みている。その上で〝第二の人生〟という更正のあり方を問いながら、我々の人生のあり方をも問うている。これまでも〝普通の男〟を演じることに長けていた錦戸亮の演技アプローチが秀逸で、「死は終わりではない」とするエンドロールで海へと沈んでゆくものもまた秀逸。
「岡崎京子のコマ割は映画的である」と感じていたことを確信させた本作。同時に、実写映画であるからこそ漫画とは異なる表現も実践してみせている。例えば、山田が焼身自殺を図った田島の姿を目撃するカット。徐々に笑みを浮かべる表情の変化は、役者の身体によってキャラクターをより〝ナマモノ〟にさせている。いつの時代も「イマドキの若者」と揶揄される不変が導く、若者たちの鬱屈という普遍性。それゆえ、教室前で二階堂ふみと邂逅する小川紗良という組み合わせの妙に震えた。
「アイドル」=「虚像」のイメージがSNSによって肥大してゆく、或いは、グループ卒業というタイミング。北原里英・本人の持つバックグラウンドは、否応無く〈新潟〉という土地の必然性を感じさせる。その現実と虚構とを隔てる曖昧な境界線は、北原の演じている役がギリギリの状況にあることと、撮影現場でも実際にギリギリの状況であったこととを巧妙にシンクロさせている。そして〈新潟〉の過酷な雪景色は、奇しくもサニーの〝凍った心〟のメタファーにもなっているのである。
ヒロインは緑内障であるという設定。視野の一部が欠けているものの生活に支障がある訳ではない。同様に、恋慕する相手に対しても、見えている部分と見えていない部分がある。はたまたそれは、見えている部分と見ないようにしている部分でもある。〝見えない部分〟があっても生活に支障をきたさないように、恋愛において〝見えない部分〟があったとしても支障をきたさないのかも知れないと暗喩させている。それゆえ、お互いを直視しない横並びの構図を多用しているように見えるのだ。