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昭和的なキャラクターと、昭和のまんまの美術や小道具。シレーッとすれ違う魔物や妖怪も劇中の古都・鎌倉の町並の中では不自然ではなく、この辺の雰囲気作りが素晴らしい。江ノ電に乗っての黄泉の国への旅立ちも、ぬくもりと懐かしさがあり、旧き良き温泉宿が重なったような黄泉の国の家々も楽しい。丁寧な作り込みが映画を豊かにするのだと、つくづく思う。俳優陣も、背景と雰囲気にベストの演技で、どこか子どもっぽいのもいい感じ。大人こそが楽しめる愛すべきファンタジー。
昨今の日本映画にはないゴツゴツした泥臭さに圧倒される。社会派映画的な要素も盛り込んだ3兄弟の血の宿命。因果な父親の元に生まれた3人の、長男はアウトロー、次男は権力側にシッポを振り、三男は風俗業で女たちの世話。この3人が父親が遺した土地のせいで暴力を引き寄せてしまうのだが、その暴力のすさまじさに入江監督の、ただごとではない現実への怒りと決意が感じられ、その救いのなさに粛然とする。兄弟役3人の熱演も特筆もので、中でも桐谷健太に拍手を送りたい。
ムード歌謡ならぬ、ムード劇画ふうのクライム・サスペンスで、どの人物も輪郭だけ。曰く台湾から来た殺し屋。台湾人のシャブ中売春婦とその幼い息子。お節介で気のいい隣人たち。ザックリとした3幕構成で、特に2幕に時間を割いているが、この2幕がさしたるドラマがないだけに中だるみ、地元の祭りで隣人たちが素人歌舞伎を演じるくだりなど、ただの時間稼ぎ。殺し屋チャン・チェンの演技もムード先行、とにかくヤクザ相手の大殺戮まで暴力の低空飛行が長すぎて途中で飽きたりも。
映画の中には、主人公のキャラクターや設定にウンザリしながらも、ついズルズルと観てしまい、あとでそんな自分に腹が立つことがあるが、この映画もそれに近い。〝世の中の1ミリも役に立たないこんな私ごとを、世間に発表する勇気ないわ〟と、一見、殊勝に呟く初恋妄想女子のお騒がせコメディ。適当な他人を相手にしたデッチ上げの会話も、自分を肯定するための独り相撲で、どこまでも、私、私、私の〝私〟サイズ。そうか、これ、スクリーンではなくDVD向きなのか。ならばいいかも。
優しい、良い感情を美しく描いているのだから文句をつける人間のほうが邪悪で間違っている、という域に達した作。スペクタクルでファンタジックな表現と、親子愛や夫婦愛、通い合う想いを描いていたことが良かった。VFXによる加工によって可能性を広げた映像が良かった。原作漫画の四頭身的人物像を芝居で表現した役者ら皆よかった。大概の問題は取るに足らない、と繰り返し、個的な愛に閉じることを歌う宇多田ヒカルの主題歌歌詞にゾッとさせられたのは私が未熟であるゆえ。
見応えあった。「ジョーカー・ゲーム」「22年目の告白 私が殺人犯です」も全然悪くなく面白かったが、どうしてもそれらは違う監督でつくりうる可能性があるわけで、その点本作は脚本・監督入江悠ということの一本道に作り手が乗せてる重心がワンカットごとのパンチの重みとなっていた。何言ってるかわかりませんが。詳細は省くが私は登場人物たちのようなひとたちを割とよく知っている。わかる感が激しかった。今年のベストテンに入れたい。地元のヤクザをやった般若が最高だった。
クライマックスで張震が振るうナイフが序盤に青柳翔から受け取ったものであることは大事で、受け渡しした当事者らは知らぬまま因果が連なる。プレスはあの台湾殺し屋の立ち回りを、流れるような美しいアクション、と形容するが私があれを言葉にするなら、無造作な刺殺、と言う。「クーリンチェ少年殺人事件」の小四の短刀や「サウダーヂ」の田我流の包丁は映画を渡る愚行の象徴。本作中の刃もそれを引き継ぎ、ヒーロー的でもあったがむしろ罪と痛みこそが鈍く光ったと思いたい。
ウディ・アレン「アニー・ホール」のような饒舌な独白と自意識がもはやその屈折を誇るでもなく切実な生きづらさとしていま現在のここ日本の女性の生活の姿に顕れるのがいい。語り口も技あり。監督大九明子の(文字通りの)処女作品「意外と死なない」(99年)を観ていたので本作との似通いかたに驚く。原作者綿矢りさが題材としたことを既に監督も抱いていたわけで、この原作にこの監督は必然の感あり。他人の愛に賭けることにふるえる者へのエールとなりうる一本。かなり好き。
夫は妻に「鎌倉と東京は時間の進み方が違う」と説明する。つまり「鎌倉と黄泉の国も時間の進み方が違う」という対比になっているのだ。血縁関係に依らない〈疑似家族〉を描く作品が増えている昨今、この映画では血縁が重要な要素となっている。ともすれば前時代的な家族像なのだが、家へ帰ることを主軸にすることで、本作は〈疑似家族〉を描いた作品群に対する〈家族回帰〉という対比にもなっている。そして、あの世とこの世を繋ぐレールを走る電車は、人生をも想起させるのである。
この映画では、三兄弟の実家である〈神藤家〉を中心としながら、街全体を〈グランドホテル形式〉に見立てた構成にさせている。〈グランドホテル形式〉としては範囲が広すぎるようにも思えるが、登場人物たちの人生の行動範囲がそう定義させ、彼らを何度も〈神藤家〉に集結させるのである。〈神藤家〉は三兄弟が再会する場として、あるいはトラブルを生む場として何度も登場。繰り返し舞台の中心に戻すことで、地方特有の家族や土地への〈呪縛〉を観客の深層心理に訴えているのだ。
西部劇よろしく本作の冒頭では、ナイフ1本で屈強な男たちを倒す主人公の姿を見せることで、その凄腕ぶりを提示してみせている。また、か弱い女性や幼い子供を守る姿という西部劇的な価値観でも物語を転がしてゆく。一方で、血縁に依らない〈疑似家族〉的な価値観に目覚めてゆく主人公の姿を見せることで、現代的な〈家族〉のあり方も提示する。それが、異邦人と異邦人が出会う物語であるからこそ、絆の深さをより印象付けているのである。夜間の草むらにおける銃撃戦は何とも出色!
この映画は松岡茉優の独壇場である。そして松岡茉優の演技を見るための映画と言えるほど、彼女の存在そのものが映画そのものになっている。綿矢りさの小説に限らず純文学は一人称で書かれることが多いため、映画化においてはモノローグや台詞で説明しがち。同様に本作でも松岡茉優が独りで喋りまくっている。つまり逆説的に、文字では表現できない言葉の抑揚やスピードをコントロールすることで、本来なら台詞過多と思える説明的な台詞が主人公のキャラクターを作り出しているのだ。