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鎧ボディの弟アルの造形には感心する。イタリアの古都でのロケも効果的。けれども実写化で逆に人間キャラが薄っぺら見え、みな喋る人形みたい。アニメ版のときは、どのキャラクターも同じ重量感で動き回っていたのに。いっそフルCGにした方が良かったのでは。錬金術という中世的なトリックも実写化で電気紙芝居化、ただの見世物映画に終わってしまったような。それぞれのコスチュームにしても、生身の人間が着るとハロウィンの貸衣裳レベル、やっぱりこのハナシは実写に向かない。
長時間労働、低賃金、病気になっても放っとかれ……。という「あゝ野麦峠」ふうの女工哀史ものと思いきや、良家の子女を含む頑張りやの愛国娘たちが、まだ新しいレンガ造りの製糸工場で、互いに励まし合って絹糸を紡ぎましたとさ。いや、バカにする気はないが、いくら世界文化遺産の富岡製糸場をアピールするための再現ドラマといっても、あまりにもキレイごとすぎて、ちょっと気味がワルくなる。当時の日本の状況もサラッと触れているが、誰かが言う一億層活躍なる言葉もチラッ。
見た目、すでに大人男子の2人の会話にズッコケる。お前、高校に行くんか。ともう一方、オンナ働かせて高校なんか。つまり中学生同士の会話ってワケ。若手のイケメン系が中高生を演じるのは珍しくないが、ここでは仲間もみんな大人顔で、友情と喧嘩もただバカやってるよう。そもそも実在の主人公で天下を取る(但し福岡限定)が口ぐせの佐田正樹という名も私には初耳。お笑い芸人で成功した(?)から不良時代の実話が映画化されたということだろうが、そうか不良もメシの種!?
何ともご大層なタイトルに、子どもにキラキラネームをつける親と同じ虚勢を感じ、ちょっと引いてしまう。確かに同じ職場で出会った女2人は、それぞれ心に罪悪感を持っているのだが、やがて見えてくるその罪は、罪というより不運な偶然。地方の小都市の光景や脇の人物など、かなりラフで達者なだけに、女2人の罪悪感がより浮いて見える。彼女たちがドライブに連れ出すセーラー服少女の話も三面記事ふうなエピソード。場面の飛び方や、時間の戻し方はうまい。
試写鑑賞時には原作未読だったので東洋人にしか見えない俳優がエドワードとか名乗っているのはモリシゲが『屋根の上のヴァイオリン弾き』をやるようなものかと解釈。公開迫る劇場で無料配布されてた原作漫画第一話目を掲載した冊子を読み、ダブルアクションで今しも撃たれようとするリボルバーの輪胴を横から掴んで発射を阻むという描写に最も感銘を受け、これは絶対行き届いた漫画だろうなあ、と思ったが本作にはそこまでのものはない。有名漫画をとにかく実写化するという事業。
画面(陰影やセットの撮り方)に既視感があってなぜ? と思うが撮影高間賢治のクレジットを見て納得。先頃観た「地の塩 山室軍平」も明治期を扱った映画で高間氏の撮影によるものだった。大映撮影所の時代劇とはいかないが近代を描くルックは実現されている。私の旧職場、京橋の映画試写室は後に富岡製糸場を所有する片倉工業の持ちビルにあった。片倉は製糸場を富岡市に寄贈した五年後京橋のビルを売却し試写室も移転。近代現代はシームレスで常に手作業する無名者が存在している。
本作内で漫画および映画の「ビー・バップ・ハイスクール」が出てくるがもう非常によくわかる。原作者、監督、脚本家と年齢が三歳以内のズレしかない同世代として、ものすごく影響されてる世代の実感がある。だからこれは最近の「ハイ・ロー」とか「クローズ」の雰囲気で映像化されたらダメだったと言いたい。ビー・バップ的に仕上がっている(女子が観なさそう……)のが良い。黒石高大の存在感が代表するような、チャラいイケメンにムカつかされる想いの真逆の、Vシネ感も満載。
長所と短所を書き、しかし、とそれらを逆接でつなぎ、その配置で読める評としての流れをつくることをしたくなくなる。発想や思い入れが良いことと、見せ方としてもっとなんとか、が同時に在るから。被虐待ネグレクト娘のイヤフォンジャックが何の機器にも差さっていないカットとのっぺらぼう目撃談の解題(犯され捨てられた女性の顔がガムテープで塞がれていた)に、この監督の残酷さへの感受性を感じた。あとは世界の理不尽さに謝るな。怒っていいんだ。そうすれば癒しはいらない。
魂のみが残り鎧姿となった弟・アルには、当然表情が無い。モーションキャプチャーされているもののCGで描かれたアルに命を吹き込んでいるのは、声優の力量に依るところが大きいように見える。つまり、声の演技が映えていることは、アニメーションで描かれてきたアルとの差異が無いということではないか。また本作は、撮影現場で砂埃や塵を表現するのではなくVFXやCGによる後処理で表現している。実写映画化にもかかわらず、その利点が削がれていると感じさせるのは勿体ない。
山道を登る、鼻緒が切れるなど、映画冒頭から富岡製糸場へと向かう若き女性たちの行く末には困難が待ち構えていることを予見させている。明治以降から現在に至る日本の繁栄の礎は、斯様な市井の人々の努力によって築き上げられたものであることを再確認。西洋の技術や文化を羨望したかつての日本。視野が国の外へと向けられた時代だったが、現代日本は様々な物事がガラパゴス化する傾向にあることを憂うに至る。再現ドラマのような構成には、個人的に映画として若干の異論あり。
この映画には、何でもない〝あぜ道〟が何度も登場する。また、画面奥を消失点とする〝一本道〟や〝真っ直ぐな道〟も度々登場する。それは主人公たちの〝生きる道〟にも見えるし、向こう側の見えない未来への不安を象徴しているようにも見える。彼らの姿は常に道の向こう側へと消えてゆき、後戻りすることはない。ただ、前進するのみなのだ。そのことは「死亡遊戯」のごとく、建物の上階と登ってゆく乱闘場面にも表れている。胆の据わった存在感を放つ今田美桜のキャラクターが秀逸。
ピノとパピコのふたりは、ママチャリに乗って移動する。彼女たちにとって「自転車で移動できる範囲」=「彼女たちの人生の範囲」ということを、視覚的にも想起させているのだ。寉岡萌希、紗都希、松永有紗の各々が社会に向ける眼差しが印象的で、その姿は地方独特の閉塞感や鬱屈をも表現してみせている。彼女たちによる演技のアンサンブルは、お互いがお互いを補完しあう関係を構築。現代社会における問題に対して安易な回答を提示しない厳しさが、より問題点を際立たせている。