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Ch・ノーランとは一八〇度異なる視座からダンケルク撤退作戦が映画化されたのは興味深い。ロンドンの主婦が脚本家として一人前になっていくサクセスストーリーと、ダンケルクの人命救助を国威発揚に利用しようとがんばる映画製作現場の葛藤が、人情味豊かにからみ合う。しかしそれで納得してはいけない。これはノーラン以上に国威発揚、戦意昂揚のプロパガンダでもある。問題は、現代においてこのようなプロパガンダへの抵抗感が薄れている点だ。やはり世界は悪化している。
チリ近現代史を本作「ネルーダ」を嚆矢として、ドキュ「チリの闘い」、ララインの前々作「NO」と並べ直すと、苛烈にしてハッピーエンドの3部作が浮かび上がる。ファシズム勢力とコミュニストの激闘のサーガである。「イル・ポスティーノ」で名優Ph・ノワレが演じたチリ詩人ネルーダを、本作ではルイス・ニェッコが妖艶に演じるが、もっと出色なのはG・G・ベルナル演じる捜査官だ。彼はネルーダ追跡を指揮しつつ自ら追いこまれる。追跡ゲームのこの倒錯こそ本作の面目躍如である。傑作。
「ル・コルビュジエとアイリーン」「ネリー・アルカン」など、芸術家についての出来の悪い伝記映画が最近は横行している。本作も当初は、なぜドワイヨンほどの人が今さらロダンとカミーユの愛憎をやらなければならないのかと不審に思った。ラストの箱根彫刻の森の実写も蛇足だし、つい出資元の意図かと邪推してしまう。だがドワイヨンはドワイヨンである。工房での手の動き、物事を見通す視線、作業音、そのすべてが単に伝記であることを超越して、ただただ映画の方を向いている。
とにかく目の付けどころがいい。「エクソシストって実在するの?」と誰もが吃驚するだろう。ヴァチカンが公式的に悪魔祓い養成講座を主催するシーンまで出てくる。シチリア島のカタルド神父のもとに助けを求める患者たちは、本当にオカルト映画の登場人物に見える。ある日、回復した患者が一家で神父にお礼参りに来る。うれしそうな神父「きょうもミサに出席していくね」「もちろん」。しかし少女はみるみるうちに声色が変化し、悪辣な態度を見せ、結局ミサに出ないまま教会を出てしまう。
映画制作現場を舞台にした作品には面白いものが多いが、これも優秀な一篇。ダンケルクを題材にした戦意高揚映画づくりというのがいい着想で、脚本家と情報省との攻防戦には苦笑されっ放し。新人女性ライターを主役にして、先輩や老優が映画界に導いていく構成も巧い。米国に受けるためにマッチョ男優を起用、途端に演出が冒険活劇になる挿話など爆笑。が、何よりも戦争という厳しい現実、それとは違う虚構の世界。でもそこに救いがあり、真実が宿るという映画の本質が込められていて。
1948年のチリが舞台。一瞬、政治劇かと思う。しかし民衆のカリスマ議員を主役にして、文学の匂いがたちのぼった。逃亡者を追う警察官。その視点でネルーダ像が語られていく。が、彼のモノローグもまたネルーダの思考の産物なのだ。この二重構造に小説の面白さが滲み出て。ネルーダも映画の作り手たちも、政治や革命よりも文学の力を信じ、愛している。だから彼は自分を迫害する側の人間に想像を巡らしたのだろう。スパッスパッと切り取っていく、ナイフの様な画面構成の鋭さも快く。
ほとんどがアトリエで展開される。ロダン、その人の創作の現場を主とした構成。撮影が渋い。『地獄の門』の悲痛、『バルザック像』の人間臭、それが世間から受け入れられぬ焦燥。加えてあのカミーユとのしがらみも絡めて。もういくらでも粘っこくなる題材。だけど観終わった印象は、意外にさらりとした感触で。エピソードはある。だけどそれがスケッチ程度にしか迫ってこない。するとこの監督が、映像のスタイリストに思えて。もっともっとロダンを抉るような泥臭さもほしかったという欲が。
一応、ドキュメンタリーの体裁はとっていても、再現ドラマみたいな場面もあって。会話がちゃんとカット割りされていたりとか。真実に到達するためには、その手法も有りかとも思うのだが、これではちと中途半端。登場の悪魔憑き人間たちは、精神的ストレスの持ち主に見える。神父が執り行う悪魔祓いの儀式も、どこか一時の気休めに思える。人間の心の病、その闇の深さ。それに付き合わされる聖職者の溜息と憂鬱。何だかそんな皮肉な味わいしか感じられなくて。ホラーとは無縁の映画。
第二次世界大戦時のロンドン。プロパガンダ映画の脚本家にスカウトされたコピーライターの女性の奮闘が描かれる。女性の視点が買われたのだ。とはいえ、事実を基にした物語の映画化はそのまま描いてもダメで、何とか〝作品〟にしなきゃいけないと女性は男性の相棒と知恵を絞る。ヒロインは美人に。もっと大胆に、勇敢にと。その辺りの映画脚色の舞台裏が、仄かなロマンスの匂いも交え垣間見られて楽しい。主演ジェマ・アータートンの存在感も魅力。映画が夢であった時代の一端だろう。
1971年にノーベル文学賞を受賞した、チリの英雄ネルーダ。共産主義の政治家にして、詩人であり、芸術家であった。彼と彼を追う警官の関係がタペストリーのように織り成されていく。かなり詳しく背景を知らないと内容はわかりにくい。それゆえに、この作品では実験的とも思える斬新な編集と語り口、ふいに映り込む街並みや自然の景色、光の注ぐ映像美に目を凝らしてみたい。特に、ラストの雪のシーンは、ガエル演じる警官の精神を奥深く伝えている。ネルーダ像はとらえづらい。
成功を得てまもない壮年期のロダンの日々を、ジャック・ドワイヨンが骨太なタッチで描き切った野心作。良くも悪くも、芸術家像をまるごと背負っているようなロダン。その姿をありのままを見つめるように、浮かび上がらせ、容赦なく切り込む。カミーユ・クローデルとの関係も含め、特に女性としては肯定しづらい人物像だが、ロダンを演じるヴァンサン・ランドンが全身全霊で役に挑んでいて、芸術家の業と純真を表すドラマとして見応えがある。終わり方が意外な着地点であった。
フィクションとしてのものだと思っていたが、悪魔祓いは千年以上続き、現代にも存在しているという。イタリア、シチリアのそうした儀式の様子を映し出したドキュメンタリーだ。身に降りかかる問題を悪魔の仕業とし、激しく叱咤する神父を前に泣き叫ぶ人々。祓う方も、祓われる方も、どちらの姿も壮絶である。ナレーションを排したスタイルが効いている。ラストの世界各国からの神父たちの集いで映画の空気がガラッと変わりユニーク。現代社会を生きる人間の困難を改めて感じた。