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脚本家・山崎佐保子の実体験をベースにしたオリジナル脚本の映画化だそうだが、親族の葬儀に集まった身内の人々のキャラや言動は、手垢まみれとは言わないまでも、既視感があるものばかり。つまり葬儀をめぐる悶着は時代やキャラがどう変わっても同じということで、あらためて気付くことはほとんどないのが残念。ではあるが、達者な俳優陣を賑やかに動かす森ガキ監督の演出はソツがない。ロケ地、熊本県人吉の田園風景も効果的。でもでも香典泥棒のエピソードは脚本の暴走で不快。
テレビで紹介された感動実話の映画化だからといって感動するとは限らない。主人公の描き方というか、演出が素人写真の場面、場面をつないだように平面的で、観ていても何一つこちらに入ってくるものがない。いや、障害のある子どもの世話と、故郷に住む認知症の母親への対応でウツになりかかった主人公が、ある老女の一言で気持ちを立て直すだけではなく、自己実現にまで至るという話自体は、凄いな、リッパだな、と思う。けれどもこれは実話としての情報にすぎず、映画は薄っぺら。
以前、誰かが(名前を失念)明治以降の文学のほとんどは、女は姓は無視され下の名前のみで登場すると新聞のコラムで書いていて、ナルホドと思ったことがある。ところが魚喃キリコの漫画を原作にしたこの映画では、ヒロインはツチダで、同棲相手はせいいち、元カレはハギオ。苗字とか下の名とか、さして意味はないのだろうが、そのツチダの小さな世界での愛と未練、金魚鉢の中を泳ぐ金魚のようで、いいんじゃないの、ツチダが良けりゃ。にしても金ほしさに愛人契約とは軽いツチダ。
少女漫画もその映画化も言ってみればスナック菓子、読んだり観たりする側は、ちょっと変わった味付けの方が気分転換になるのだろうが、それにしてもこの青春ラブストーリー、大人には我慢と忍耐。幼い時に〝運命の人〟に出会った女子高生をめぐる、音楽絡みの三角関係――。親や教師は一切登場せず、学校や教室はただの溜まり場。しかもある理由でいつもマスクをしているヒロインが、ケタタマシイ美声(!)の持ち主というのもウヘーッ! 救いはロケ地の鎌倉と江ノ電。ここだけホッ。
真面目な映画だ。日常と、起こりうる脱臼を描きこみ、その延長線上に家族、死、生だのが巨大な疑問符として浮かぶ。ひとが普通に交わす平易な言葉だけで過不足なくこれをできているのも脚本がよく練られているからだろう。岸井ゆきのが魅力的な佇まいで演じた主人公が良い。大方斐紗子が「恋の罪」以来の怪演。好漢松澤匠。……ひとつイチャモン、若干、映像美に淫したか。伊丹十三「お葬式」から三十三年、菊地健雄「ディアーディアー」から二年、日本映画は更新され続けている。
よく仲間内で関西人の勢いこんだ上京の例として、鈴木紗理奈が大きな荷物をしょって新宿コマ劇場前にやってきておもむろに「負けへんでー!」と叫ぶ感じ、というよくわからない喩えというかイメージを語っていたのだが、それを言う奴らには私も含めて意気込みなしに上京した関西人がおる。その私がなんとなくのうちに離れた関西に叱られるのである。お前は鈴木紗理奈のようにど根性で生きとるんか、世界に対してええ声で、負けへんでー! 言えるんか、と。本作がそう言うのである。
監督冨永昌敬は実験的というか前衛的というか、映像と音響がエッジをきかせたままゴロンと観客に投げ出される映画を細心の注意を払いつつつくってきたが「ローリング」以降、ようやくその現代性とナラティブが連係するようになった。本作もまたその結晶。青春映画になるにはもう遅い女と男を描いた、青春に引導を渡す映画。原作からして良い。漫画原作で恋愛が題材で、だが、ションベン臭いキラキラ映画どもに煙草の煙を吹きつけて追い払うオトナのオンナノコの映画。素晴しい。
大人気漫画なるものを原作とする映画でよくある、原作設定を、皆さんご存知の……とシレッと前提にしてしまうか、懇切丁寧に観客に説明していくかの、その度合いがブレてたような気が。主人公を説明する過去の回想が中断されてる編集も良くない。しかし、中条あやみの歌う顔のアップの破壊力は凄く、歌うことで生きる実感を持てるというヒロインを信じさせた。恋愛ものにおいて幼馴染と恋を成就させるのは保守的で、その甘い呪縛を破るのが進歩的革新的。本作の世界観は……。
劇中「セカイは他人事で出来ている」という台詞がある。その〝他人事〟を視覚的に表現するため、何かが画面の手前で人の姿を遮るような引きの画を何度も挿入。映画の中の出来事が登場人物たちにとっても〝他人事〟であるという印象を導いている。そして決定的な瞬間には、顔の表情をクロースアップで挿入。この対比が表情を映えさせ、同時に〝他人事〟でなくなる瞬間にもなっている。つまりこの映画は「他人事と思っていたことが他人事でなくなる」ということを描いているのである。
脳性麻痺の娘を抱えた主人公の行動範囲は、ほぼ団地の敷地内。その限られた〝社会〟の中で様々な出来事が起こり、多様な〝世界〟があることを本作は提示。だからこそ、小さな出来事の中にも〝幸せ〟があるのだと描いている。冒頭「明るないとやっとられへん」と、阪神大震災に遭った主婦たちは朗らかに語る。その言葉は、何の前触れもなく人生に突然訪れる困難や試練に負けない、あるいは、自嘲することで牽制する、困難や試練を実際に乗り越えてきた人々の魔法の言葉なのである。
魚喃キリコ作品のコマには〈余白〉がある。この〈余白〉は漫画特有の表現。実写では周囲のモノが映り込んで被写体を際立たせるには限界がある。本作では、クロースアップで漫画のコマを再現することで全体の印象を寄せている。また、相手の〝におい〟を嗅ぐ場面が何度もあり、〝におい〟によって「人と人」=「男女」の関係を効果的に描いている。「近くにいるのになぜか遠い」という男女の関係を描いてきた魚喃作品とイメージが乖離していないのは、この距離感によるものでもある。
この物語の少年少女たちは長年顔を合わせていないが、相手に恋心を抱き続けている。そんなことが可能なのだろうか? と大人は勘ぐってしまうのだが、それゆえ〝声〟が鍵となる。本作において〝歌〟の存在は重要である。〝歌〟が魅力的でなければ、この映画自体の魅力も欠ける。それは音を伴わない漫画との違いでもある。本作で容姿よりも〝声〟の魅力が勝るのはそのためだが、それは現代社会の〝美〟に対するアンチテーゼのようにも見える。但し、中条あやみは抜群に美しいのだけれど。