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そう言えば取材中に誰かが、ボーヴォワールの言葉として知られている「人は女に生まれない。女になるのだ」の、〝女になる〟を引用していた。この哲学者は、「人は天才に生まれない。天才になるのだ」とも言っている。うーん……。ま、それはともかく、男として生まれた自分の心身に違和感を持ち、手術で〝女になる〟ことを決意した一人をメインに、何人ものLGBTの人たちを取材したこの記録映画、多くがバー等で働いているからか、よく笑い、よく喋る。何やら上すべりな気も。
「凶悪」「日本で一番悪い奴ら」「牝猫たち」もそうだったが、白石監督は人物やそのストーリーに正面からぶつかって、決して上げたり下げたりしない。原作が〝イヤミス〟の人だけに、どのキャラクターも大いに難あり、気色のワルさは半端じゃないが、露悪的ともいえる躊躇のない演出は各俳優たちからチャレンジングな演技を引っ張り出し、実にスリリングで面白い。蒼井優と阿部サダヲが暮らす部屋の乱雑さも実感がある。終盤の〝絶対愛〟は救いか悪夢か。或いは究極のストーカー!?
被曝牛の殺処分については、原発絡みの記録映画やテレビのドキュメンタリーなどでそれなりに知ってはいたが、本作はキレイごとも本音も超えた人間の不条理に迫る力作だ。放射能に汚染され経済価値はゼロの牛でも、いま生きている牛は殺せないと、餌代を工面して生かし続ける畜産農家の方々。冒頭近くの、牛舎で餓死した牛たちの無惨な姿に思わず目を伏せつつ、その一方、もし原発事故が無かったら、当然のように屠殺場に送られ食肉化したに違いない牛たち。人間界と連動して怖い。
ご大層な設定のわりに映画を観たという実感がほとんどない。そもそも絶対味覚を持つ料理人という主人公の設定が私にはどうもウサン臭い。客に威圧感を覚えさせるイメージ。その彼が、1930年代の満州で日本帝国が命じたという幻のメニューを再現するために、当時の関係者を訪ね歩くというのだが、並行して描かれるその30年代の話も、絶対味覚を持つ料理人が主人公、何やら能書きばかりで娯楽映画としての摑みどころが弱い。ミステリー仕立てだが、遠回りのしすぎで、あゝ腹減った!!
性においてフィジカルな条件が枷だという人間の苦難と闘いが鮮やかに出ている。アソコの工事のことを考える三人が、近所の工事の音がうるさい喫茶店で延々と語り合うところは一見ダラダラしすぎに見えたがだんだん味わい深い場面にも感じられた。全篇そんな妙なテンポのなかに輝く瞬間がちりばめられている。医師が語った日本性転換手術史も興味深い。全身麻酔覚醒時の主人公の痙攣に圧倒された。しかし彼女は覇気のあるいい女。粗いところもあるがとても良いドキュメンタリー。
えげつなさを押し出しつつ映画自体のつくりや演出は繊細かつ巧み、原作を読んでみれば脚色も優れているとわかる見事な映画。昔たいへん惚れた女を無理に説き伏せて同棲し、彼女が乱酔するたびに蔑まれ嘲られていたこともあった私としては本作の蒼井優と阿部サダヲの姿に懐かしさと切なさを感じた。得た恋を生活のなかで腐らせたことのある身としては、本欄担当ゆえに見せられ続けてきたキラキラ映画に物足りなさがあるが、白石和彌によるこの素晴らしいドロドロ映画に不足はない。
うっすらと希望の牧場ふくしまと吉沢正巳氏に興味は持っていたが追えていなかったところ、本作で知ることが出来た。ほかの被曝地域畜産家の苦しみも印象に残る。そして牛の死骸の映像。それは、そのままに強烈であり、同時に原発事故被害の象徴でもある。我々もそうなりうる、経済の論理と政策から外れて棄てられる生命が陥る惨状。吉沢氏のドンキホーテ性は、国と、あのような事態を無視できる者が持つ、自覚なき巨大な狂気を刺す、人間的な怒りにして純金の狂気。支持したい。
役者はカラダが基本だ。二宮和也が本作のロングショットで歩いている姿が昭和のジジイ刑事みたいで、彼は大滝秀治か殿山泰司を目指してたのかとちょっと驚き、それもいいかとも思うが、やはりコントロールできていない身体不活性は料理をつくる芝居にも悪く響き、冴えぬ。実質主役西島秀俊。その体幹部安定からくる姿勢と秘めた腕力が天才料理人役に説得力。綾野剛のつくる炒飯も上腕二頭筋×中華鍋ゆえにうまそう。ニノ、ジム行け。本作自体は題材と展開が良くてかなり面白い。
映画の冒頭、3人の若者の会話を15分前後のフィクスのワンカットで見せる。それは、観客が彼らの会話に聞き耳を立てながら覗いているかのような効果を生んでいる。しかし映画であるならば、別の手法もあったのではないかと思わせる点が痛恨。まだ20代である彼らの〝新たな人生〟はここから始まる。50年後、果たして社会は彼らを理解し、受け入れるようになるであろうか? 本作は世界的な潮流である多様性のあり方を考察させるが、ここで描かれることはその〝はじまり〟に過ぎない。
この映画では〈鳥〉というキーワードを「幸せ」の象徴として点在させている。例えば映画の冒頭でテレビに映し出されたビデオ映像からは、微かに〈鳥〉の声が聞こえてくるし、主人公が幻視する場面でも〈鳥〉が鳴いていることを確認できる。しかし、その〈鳥〉の声は現実のものではない。つまり、音響効果によって「幸せ」が本物であるか否かを示唆してみせているのである。それは伏線ともなり、ラストで空を飛翔する無数の〈鳥〉たちが「幸せ」=「愛」の大きさを物語るのである。
自然災害における〈復興〉とは時間の経過とともに状況が良くなり、改善されてゆくはずなのだが、この映画で描かれる状況は時間の経過とともにどんどん悪化。その姿は〈復興〉と程遠い。本作は原発事故によって被曝した牛を題材にしながら〝ふるさとを守る〟ことの意味を問うている。この点には同意できるのだが、後半に環境省へと出向くくだりが最悪で、全く同意しかねるのが難点。だが、「不都合な真実2」と併せて観ることで現代社会の何かが見えてくる。僕は原発なんていらない。
映像で味覚や香りを伝えるのは難しい。つまり、映画で〈食〉を描くことには困難が伴うのだ。それゆえ「おいしい」という言葉を使わず、いかに〝おいしさ〟を演出で観客へ伝えるのかが肝となる。この映画では食材を切る音や炒める音など、調理の〈音〉によって旨味を伝えようと試みている。残念なのは、登場人物たちが何度も「おいしい」という言葉を放つ点。それを差し置いても本作には観るべきものがある。それは役者の包丁さばき、レシピを巡るミステリー、そして反戦の念である。