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原作コミックもアニメもまったく知らずに映画を観て、冒頭すぐに逃げ出したくなった。少子化対策で国家が理想的なパートナーを決めるという制度。DNAなどのデータからカップルの選別をするんだと。ゲッ!! 生めよ、増やせよ、お国のタメに? しかもまだ大人未満の16歳で相手を限定され――。で、この制度に何の疑問も持たない受け身女子が、国家のおススメ男子と、幼馴染み男子に挟まれ、どっちにしようかな、とおママゴトふうにキラキラ悩むのだが、ああ、時間のムダ!!
山室軍平が遺した功績は、確かに多方面に影響を及ぼしているが、彼の生涯を描いたこの作品、奇特な男の奇特な人生という感想しかない。つまり、軍平という主人公に、まったく魅力が感じられないのだ。脚本も演出も山室役の森岡龍も、その場、その場のなり行きだけを追っていて、特に若き日の軍平は、無神経で強引。別に美談を描けというつもりはないが、節目のエピソードを箇条書きふうに並べても本人の言動に説得力がなければ感動のしようがない。予算の関係か、ロケ・セットも箱庭並。
ドラマ出身の石川監督の映画第1作は、今回と同じ古沢良太の脚本による「エイプリルフールズ」だった。薄っぺらで大袈裟なキャラたちが、嘘に追われて右往左往するドタバタ群像劇。で、今回は嘘の代わりに卓球を描いたスポコメ(コメディ)だが、脚本も演出もチャッチャッと話を運ぶだけ、笑いのレベルも人を馬鹿にしたような。卓球クラブに集まったメンバーのキャラや、終盤の選手権大会は「Shall we ダンス?」の線を狙ったのだろうが、俳優たちが上っ調子で達成感も薄い。
石井隆も、園子温も、追い越せ、追い出せ、って意気は良し!! ただどうしても2人の先達の模倣感は否めず、いっそキツいパロディにした方が良かったかも。あ、一部パロディになっているか。風変わりなサーカス団を密室化しての虚実皮膜ふうのイメージ劇で、焼きの濃い映像と、官能的なライティングが挑発的。これが商業映画第1作の二宮監督は、時空を一体化した映像を目指したそうだが、夢とうつつをさまようヒロインの脱皮に至る過程は、映像的にもスリリング。寺山修司もチラッ。
映画を観てから原作漫画読む。リビドー弱まる四十男には原作のやんわりとしたポルノっぽさがしんどい。原作設定のあの圧政下で有卦に入る(体制順応者がオメコできる)ことは「愛の嵐」に通じ、「ソドムの市」的突破志向もわかるが至らぬ。この映画版が性を逆転させてルビッチの諸作や「突然炎のごとく」「冒険者たち」のような女1男2の映画的聖三角関係をつくってくれたことは観やすかったと了解。監督古澤健はいま苦しい戦いをしているのか。だがこれはプラスに評価したい。
アメリカファーストや都民ファーストを斜め上に凌駕する、主人公山室軍平の妻の遺言、神第一、に驚きと見ごたえを感じた。宗教者の伝記は押しつけがましく教条めくものだが、本作を観て、軍平が救世軍活動の実効(加藤泰「骨までしゃぶる」の女郎の足抜けのバックボーン)をこそ願ったことへの感嘆と、明治期の西洋文化咀嚼がその時期を生きた有為の人物の自我の確立とシンクロする漫画『「坊ちゃん」の時代』を読む快感に似たものを感じた。美術、撮影、森岡龍、水澤紳吾、良し。
予備知識なしで試写を観ようとして、誰が出ているのかもポスタービジュアルでどんな映画なのかも知りたくない、と思っても、ああ見えてしまった! という日々のなかで観る前に完全に本作と「リングサイド・ストーリー」を混同。瑛太が売れない役者で、彼女のサトエリと別れる別れないを賭けてキックボクシングのリングに上がる(元卓球部ゆえに卓球ふう右フックが決め技)のが「リングサイド~」で(愚直な「ロッキー」オマージュ。良い映画)、元ボクサー瑛太が卓球するのが本作。
気がきいている。しかし良いと言えない。この映画、前に違う役者で観た。商業的な場での野心ともっと根源的な志はどういう関係にあるのかと思いつつ有名俳優で撮りなおされ、より豪華になった画面を眺めた。オフェリア役オーディションというネタがあり生きるべきか死ぬべきかなどと呟かれるが、尼寺へ行け、の一言をこそ言ってやりたい。だがこんなことはいちゃもんだ。主演桜井アキは頑張ってるしキレイだし、「エンジェル・ウォーズ」「キングスメン」的アクション場面がある。
ふたりの男女が歩く住宅地は均一で外観も美しい。同時にモデルハウスのような外観は無機質でもあり、周囲と異なることを〝異端〟とみなして没個性にすることが、本作の描く〈制度〉とどこか似ている。2人の男性のうち1人を選択するという恋愛劇だが、クレープやストールを選ぶ過程での二者選択という描写はメタファーにもなっている。表層的には「恋愛+難病モノ」と解釈できるが、恋愛劇の形を借りながら管理社会・監視社会に対する警鐘を鳴らしているようにも見えるのである。
撮影の高間賢二は、人物の前後・手前奥という配置においてズームレンズを多用し、人と人との実際の距離を構図の上で錯誤させている。またフィックスを基本とする本作において、時おり奇妙な移動ショットも確認できる。それらは、義父からの手紙、教会での洗礼、猫の死骸を捕獲、救世軍を知る、といった瞬間に起こる〝心の揺れ〟をカメラの動きによって表現しているように見えるのだ。つまり監督と撮影者は、画作りによって主人公の〝精神〟をも伝えようとしているのではないか。
瑛太の演じる訳ありの男は、高速道路の高架建設現場で働いている。その光景に〝未完成〟という要素を暗喩させていることが窺える。高速道路建設には年月を要するが、徐々に完成へと向かってゆくもの。つまり、今は未完成でも、時が経てばいつか完成するのである。本作は卓球を通して「未完成でもいいのではないか?」と人生そのものについて語りかけているようでもある。そして何よりも、絶頂期にある新垣結衣の魅力は、全てを更地にしてしまうほどの破壊力を見せつけるのであった。
声望を獲得しつつある二宮健監督が、この大事な時期にセルフリメイク作品を手掛けることに対して個人的には疑問がある。それでも本作には、唯一無二の個性がある。「俺ならこう撮る」という映画愛が源泉となったハリウッド製アクション映画の模倣は、コマ単位でカットを研究することによって〝二宮健オリジナル〟な演出に。その成果は、終盤の斬新なガンアクションで実践されている。古畑新之のブッチ役も良いのだが、願わくば「眠れる美女の限界」版のアベラヒデノブで観たかった。